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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 髙木大地個展『作品集刊行記念展 2010-2022』

展覧会『髙木大地「作品集刊行記念展 2010-2022」』を鑑賞しての備忘録
KAYOKOYUKIにて、2023年5月20日~6月11日。

40点強の絵画による、髙木大地の画業の展観。

《untitled》は、白い紙に、薄墨でそれぞれ4つ、3つの輪を2列に描き、短い線を14本斜めに配している。近くには、縦長のパネルの全面を藍色に塗り、上端から下部への長く延びる線を20本描き(刻み?)、画面下部に二重ないし三重の円を描く(刻む?)《Rain drops》が展示されていることとも相俟って、禅画のような《untitled》の7つの輪と14本の線に雨と波紋とを見る。それは一種の「詐欺」と言える。

 視覚革命に淵源する言語革命を体現することによって、人間は、騙し騙される次元、思い込み思い込まされる次元を対象化し、概念による抽象的な演算をもちいて具体的な世界へと働きかけることになった。視覚によって生じた距離の最大利用である。絵はその最大利用の外在化、対象化にほかならない。「画餅不充飢」という語をめぐる道元の「画餅」一篇〔引用者註:その一節には「もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず。万法みな実にあらずば、仏法も実にあらず。仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし。」とある〕は、そのことの全体に対応しているといっていい。
 絵に描いた餅は、詐欺に似ている。
 画餅は「何の役にも立たないもの」「何の値打ちもないもの」の代名詞である。強盗や殺人と違って、詐欺がきわめて矮小な犯罪として貶められていることに、画餅はいわば対応しているといっていい。
 実際、画餅は餅を真実とすれば詐欺に他ならない。本物そっくりの餅が餅そのものよりも面白いのは、人間がいわば詐欺を楽しむ存在だからである。
 道元は、したがって、画餅すなわち詐欺がなければ、餅すなわち国家や企業もないのだということに注意を促す。「いま現成するところの諸餅、ともに画餅なり」というのはそのことである。餅は炭水化物にすぎない。糊餅、菜餅、乳餅、焼餅、黍餅と列記し、すべて画餅から現成すると述べるとき、道元は、概念の働きに注意を促し、そえっらが人間においては言語のよって成立することを述べているのだ。画餅すなわち詐欺に言語の本質が潜むと述べているに等しい。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.533-534)

《six circles and several rectangles》では、直線で構成される不定形の青い区画の中に5つの青を帯びた白い円を描くとともに、その区画から外れた同じ種類の円は、区画とともに画面から浮き上がり影を有するように描いている。同じ円の扱いを違えることで、全ては絵の平面の中に表わされていることを敢て明らかにしている。作家は絵画という「詐欺」を行いながら、同時にそれが「詐欺」であることを明らかにしている。
《Stones》には、灰色、赤紫、灰青など異なる小石が5つ描かれている。背景は黒く塗り込められている。「詐欺」を行うためのトリックである影を闇に吸収させてしまったようだ。作家は、背景の黒を平滑に処理するのではなく、ごつごつとした質感を残すことで絵具の物質感を際立たせた。それは、絵画が「現実の不完全な代理・媒体」であることを打ち出している。

 両作品〔引用者註:中島敦「文字禍」とホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」〕に共通するのは、「ヴェール」あるいは「影」として言葉を捉える見方、すなわち、現実の不完全な代理・媒体としての言語観である。
 我々の生活の大半は言葉とともにある。何ごとかを経験し、またそれを振り返り、他者に伝える際に、我々は基本的に言葉を用いないことができない。しかも、言葉は現実そのものではありえないから、多かれ少なかれ現実を曇らせ、歪めてしまう。言い換えれば、言葉が意味をもつとは、現実の不完全な代理(媒体)となる、ということである。したがって、言葉は、自己とその外部とをつなぐというより、むしろ両者を分断し、疎遠にする障害にほかならない。――〔引用者註:中島敦「文字禍」の〕老博士と〔引用者註:ホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」の〕チャンドスの言語観はこのようにまとめることができるだろう。(古田徹也『言葉の魂の哲学』講談社講談社選書メチエ〕/2018/p.61)

言語もまた「現実の不完全な代理・媒体」である。そして、言語は「自己とその外部とをつなぐというより、むしろ両者を分断し、疎遠にする障害にほかならない」ことにもなる。
作家は、絵具の物質感を際立たせることで絵画の「現実の不完全な代理・媒体」としての性格を強調するのは、その不完全さにこそ絵画の存在意義があると考えるからであろう。
ところで、ホーフマンスタールは、言語を日常生活におけるコミュニケーションに用いられる言語と詩の言語とに言語を二分し、後者には周囲の生命と調和が満ちるのを感じ取れる「幸福な時間」を呼び起こす力があると捉えている。

 ホーフマンスタールは一方では、「言葉によって我々は、見たり聞いたりしたことを、ひとつの新しい存在へと呼び起こすことができる」(Hofmannsthal[1896]1979:16/64)という点を強調する。しかし、肝心の生き生きとした現実を捉えられるのが詩の言語のみ――しかも一生に一度、奇跡的に紡がれる詩句のみ――であり、それ以外の言葉がどうしても現実を曇らせ、歪めてしまうのであれば、言葉は事実上、自己とその外部とをつなぐ媒体というよりも、それらを隔てる障害であることになる。(古田徹也『言葉の魂の哲学』講談社講談社選書メチエ〕/2018/p.59)

作家は、夜景などの風景画にせよ、花卉や瓶などの静物画にせよ、色面の構成による抽象画にせよ、絵具や支持体の物質感を活かすことで、「現実の不完全な代理・媒体」とは異なる、「ひとつの新しい存在へと呼び起こすことができる」絵画を探求している。