可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 山本文緒『自転しながら公転する』

山本文緒『自転しながら公転する』〔新潮文庫や-66-2〕新潮社(2022)を読了しての備忘録

与野都は32歳。以前は麻やオーガニックコットンなど自然素材を使ったブランドに勤めていた。高価でなかなか手が出せない服だが店員になれば着られるとアルバイト店員になり、正社員に登用され、原宿の店舗を任されるまでになった。だが店長業務は勝手が違いスタッフをまとめるのにしくじってしまった。東日本大震災原発事故で、年の差のある本社勤務の交際相手が放射能汚染を恐れて都に何の断わりもなく仕事を辞めて関西に行ってしまった。母がひどい更年期障害で家事も出来ない状況に陥ったため、父から実家に戻って母の面倒を一緒に見て欲しいと言われたのを渡り船と、30歳で茨城県の実家に戻ることになった。現在は牛久大仏に見下ろされながら車で20分のアウトレットモールにある衣料品チェーン店で契約社員として働いている。亀沢店長が子供の病気で休んだ日、マーチャンダイザーの長谷部が訪れ、モール内の回転寿司で一緒に昼食をとった。そのぶてくされた店員が顔を見ずに寿司を差し出すのが許せなくなった都ははっきりと注意する。9月の連休最終日は颱風が直撃した。遅番の都はアルバイトを先に帰し1人鍵占めをして帰ろうとしたところ、中古の軽はうんともすんとも言わなかった。都はシャトルバスで帰ろうと車を出たが、最終便に間に合わなかった。雨風に打たれ途方に暮れる中、1人の男に声をかけられる。回転寿司の無愛想な店員だった。いかにも元ヤンキーの彼は濡れるにも構わず都の車を修理すると、運転して送ってくれた。彼は羽島貫一と言った。都が名乗ると貫一おみやで金色夜叉だと言った。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

 何を期待されていて、それにどう応えるか。何を主張したいか、主張を声高にしたいのか匂わせる程度にしたいのか。そういうことを表現するのが、都にとっての「着る」ということだ。(山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.253-254)

都はファッション=見た目を大事にしている。

 「都さんに限った話じゃないんですけど、お洒落な人って狭量な面があると思います」
 「きょ、狭量?」
 「貫一さんがどんなネクタイや鞄を買ったって、それを駄目だと指摘するのはどうかと思います。ダサいって思うのはその人の自由ですけど、人の持ち物を、聞かれてもないのに、そんなふうに指摘するなんてどうかと思う。ネクタイならネクタイの、ビジネスバッグならビジネスバッグの、用途を果していれば別にいいじゃないですか。そこにセンスをプラスするのは余剰金がある場合です。ないから簡素なものを選んだわけですよね。でも彼は都さんへのプレゼントには用途だけじゃなくて、装飾品として価値のあるものを贈りたかったんですよね。それをないがしろにされて貫一さんは怒ったんじゃないですか」
 都は思ってもみなかったことを言われて呆然としてしまった。自分が料簡が狭く、狭量であるなどと思ったことはなかった。むしろ人に気を使いすぎて言いたいことが言えないことが多いとすら思っていた。(山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.359-360)

都は友人のそよかに指摘されて面食らう。だが見た目を重視する問題については父親からも指摘されているところだ。颱風で動かなくなった軽自動車は、予算が無いなら可愛いいものをとネットで探したものだった。

 台風のあと、車の調子が悪いようだと父親に言うと、整備工場に連絡してくれた。車はすぐ点検に引き取られて行って、父からは「外見だけで車を選ぶからこうなるんだ」と言われた。(山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.78)

羽島貫一は元ヤンキーである。やがて中卒であることも明らかになる。だが颱風の夜に助けてくれた貫一は都の名前を知ると即座に尾崎紅葉金色夜叉』を思いつく。彼が『金色夜叉』の主人公と一字違いの名前だからというだけではない。彼は「外見」に反して常に本を読む。学歴は無いが博識なのだ。

 「そうか、自転しながら公転してるんだな」
 「は?」
 貫一はカウンター越しに自分と都の分の酒を頼んだ。
 「なあ、おみや」
 彼は顔を寄せて都に囁いた。
 「地球はどのくらいの速さで、自転と公転してると思う?」
 「そんなの知らないよ」
 「地球は秒速465メートルで自転して、その勢いのまま秒速30キロで公転してる」
 都がぽかんとする。
 「地球はな、ものすごい勢いで回転しながら太陽のまわりを回ってるわけだけど、ただ円を描いて回ってるんじゃなくて、こうスパイラル状に宇宙を駆け抜けてるんだ」
 貫一は炒め物の皿に残っていたうずら卵を楊枝で刺し、それを顔の前でぐるぐる回した。
 「太陽だってじっとしてるわけじゃなくて天の川銀河に所属する2千億個の恒星のひとつで、渦巻状に回ってる。だからおれたちはぴったり同じ軌道には一瞬も戻れない」
 「さっきから何言ってんの?」
 「いや、面白いなと思って。おれたちはすごいスピードで回りながらどっか宇宙の果てに向かってるんだよ」
山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.102-103)

のみならず、貫一は、東日本大震災の被災地での復旧活動にボランティアで参加していた。あの颱風の晩、自らがずぶ濡れになるのも構わず都の軽自動車のバッテリーを直したように、困っている人を放っておけない。それでも貫一の属性は貫一を縛ることになる。その桎梏を貫一は自認している。

 「俺、ボランティアに行ったって言っただろう。最初はマサルの家の片づけをして、そのあとそこに集まった連中と近所の家も片づけて、隣町の消防団のリーダーが急遽作ったボラのグループに混ざって、少しずつ北上して行って。北へ行くほどひどいことになってた。よくここまでってくらい車も家も破壊されて、腐った魚の臭いが酷くて何食っても吐いちゃって。でもついこの間まで使ってた家財道具がぶっ壊れてどろどろになってんのを見てたら、なんか変なスイッチ入っちゃって。泥を搔いて、瓦礫片づけて、何日も布団で寝てなくて。夜中に余震がくると波がくるんじゃないかって心底びびって縮みあがった。でもその地域の人たちが、涙を流して感謝してくれんの。そのためにやってるわけじゃなかったんだけど、あー、よかったって思うんだよ。で、そのへんの親父と仲良くなって、夜酒飲んだりするわけよ」
 貫一が急にそんな話を始めて、都は戸惑った。
 「そうすっと、あんたは普段何やってんだ、みたいな話になって、俺、聞かれるまま中卒で割烹入って、今出勤してないとか言ったら、それじゃダメだめとか急に言うわけよ。せめて高卒の資格取りなさいとか、明日はもう帰って店に出なさいとか、不安そうにいうわけよ。さっきあんた感謝して泣いてたろって、俺笑っちゃって」
 「貫一?
 「知らないおっさんだよ。ほっとけっていうの。でもさ、それが普通の意見ってやつだよな。俺って、知らないおっさんまで不安にさせるんだなって思ったよ。知らないおっさんだけじゃなくて、マサルの親父もなんだけど。マサルのねーちゃんとふたりでどろどろになった食器とか洗ってたら、おい貫一、俺の娘には手えだすなよ、お前はいい奴だけど、俺の娘にはもうちょっといい暮らしをさせてやりてーんだよなんて笑って言うんだよ。それって冗談めかしてるけど本心だよな。でも俺、それってわかる気がするんだよ。俺が人の親なら、確かに俺みたいな男とけんっっこんさせるのは、」
 そこで急に貫一は言葉を切った。大きく息を吸い、それを吐いた。「もしおみやが、いずれは結婚して子供がほしい、それでも不安にならずにそうしたいって言うなら、やめておいたほうがよくないか?」
 貫一が冷たい笑みを浮かべて言う。都は何を言ったらいいのか言葉が見つからなかった。(山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.486-488)

貫一との関係が切れたとき、貫一と同じショッピングモールの回転寿司店で働いていたニャン君が都に連絡をくれる。ヴェトナムの資産家の子息であるニャン君はヴェトナムと日本を行き来してビジネスを行い、日本語も見る見る上達していた。日本人の「普通の意見」が分からないという彼の予想外の言動に都は揺さぶられる。

 「貫一さんはまだ若いのに、古いタイプのニッポン男児って感じがじますよ。ただの僕の印象だけど、地方に住んでる人は若くてもちょっと考え方が古い人が多いよね。まあそれはベトナムでもそう。日本の男性の自殺率が高いのは、ニッポン男児たるもの人に物事を相談してはいけないっていう考えに縛られてるんじゃないですかね」
 それまでとは違う低い温度の声に、都は言葉を失った。
 「女じゃないんだから愚痴ったり、友達同士で共感ごっこをしたりしない。男は自分の能力ですべて問題解決できるって根拠のないプライドがあって、たとえ困ったことが起きてもその自尊心が邪魔して誰にも相談できない。そして実眼。そんなふうじゃない?」(山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.566)

それでも貫一には都を揺さぶるものを確かに持っている。妊娠の疑いが解消された後、勤務中の都は体調を崩し休憩室で横になる。

 目を閉じると、あっという間に意識が濁った。
 半分意識を手放しながらも。もう半分が妙に覚醒して、ストッキングの足先が冷たかった。
 胎児のポーズで自分を抱き締めるように丸まった。体がどんどん冷えて固くなってゆく。死ぬときってこんな感じがするのかなと頭の片隅で思った。
 目をつむっているのに目が回って、水面にコールタールが流れるような思い暗闇に襲われる。
 最近会った人々の顔や情景が、その黒い流れに浮かんでは消える。
 バイトの子の不満げな唇、クリニックの女医の呆れた顔、絵里の幸せそうな頬、そよかのスマホを操る素早い指先。
 手術のときに父が着ていた寒そうな術着。母の泣き顔。
 ニャン君の毛皮、浅黒い肌と白くて綺麗な歯並び。
 貫一の古いスニーカー、埃っぽい自転車、壁に吊るしたスーツ。
 私はほんとにクズだ! と、突然叫ぶように思った。
 幼稚すぎる。話しにならない。
 何も決められない、臆病な子供だ。自分の人生なのに誰かが何とかしてくれると思っている。
 私なんか誰の役にも立っていない。
 ただ消費して、無節操に物を溜め込んでは、愚かに捨てる。
 考えてみれば、貫一と結婚することのメリットばかり考えていたが、彼にしてみれば自分と結婚することのメリットなど特にない。
 私はただのお荷物だ。
 ただのお荷物が誰かに拾ってもらおうと媚びを売っている。
 私には価値がない。
 だから自信満々な男に胸を摑まれたりする。
 価値がない。
 死にたい。
山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.383-385)

「何も決められない」、「誰の役にも立っていない」と思う人にこの小説はある。

プロローグとエピローグが秀逸。やられました。