可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 タニグチカナコ個展『取るに足りない』

展覧会『タニグチカナコ「取るに足りない」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊〔スペースS〕にて、2024年2月2日~7日。

絡まり、重なる手指などをモティーフに和紙に描かれた絵画で構成される、タニグチカナコの個展。

《eye》(910mm×910mm)は、上側3分の1が貫入のような罅の線が入る和紙、下3分の2をベージュの無地の和紙の画面に、14の手(一部は手首や腕までも含む)がランドルト環にも比せられる弧状("C"を左右反転させた形)に連なったものと、手の弧が欠けた辺りに中心から放射状に拡がる神経細胞のようなイメージが添えられている。個々の手は太めの黒い線で輪郭がはっきりと表わされ、その内部は白で平板に塗り込められている。写実的というよりは記号的にデザインされている。他方、肉厚の手指は、内側に赤味が差され、生々しさがある。1つの手は他の手に重ねるように触れて連接する。神経細胞は網膜の血管にも、花のようにも見える。興味深いのは、本作品のタイトルに"eye"が冠されていることだ。手から視神経への接続。それは、タッチパネルを操作してイメージを手にする状況を考えれば何ら不自然ではあるまい。

 タッチパネルの映像は触ることができる。そして触ると変化する。このような「触知可能で操作可能な映像」の出現は、じつは、いままでの映像論とメディアトンを、さらにはそれらを支える伝統的なパラダイムを大きく揺るがしかねないものでもある。古くはプラトンの洞窟の比喩まで遡るように、西洋の哲学は伝統的に、影と実体、「にせもの」と「ほんもの」、あるは「見えるもの」と「見えないもの」の対立を中心に思考を組み立ててきた。目や耳で触知可能な世界はしょせんは影で「にせもの」にすぎず、感覚から隠れたところに、つまりは知覚できない世界にこそ実体があり「ほんもの」があるのだという発想が、哲学の中心にあり続けてきた。
 (略)そのような二項対立は、20世紀のの精神分析や映画論にも受け継がれている。映画のスクリーンに投影される映像(見えるもの)は触ることができない。それは影であり「にせもの」にすぎない。影は触ることができないし、操作もできない。だから学問は、影に囚われるのではなく、影を作り出すカメラ(見えないもの)のほうに向かわなければならない。精神分析の言葉でいえば、想像界ではなく象徴界に向かわなければならない。それは、20世紀のいたっても、人文知を支える根本的な二項対立のままだった。
 ところが、タッチパネルの映像、つまり「触知可能で操作可能な」影の出現は、まさにそのような二項対立を脅かしている。そこでは、「にせもの」が「にせもの」のまま触られ、操作され、「ほんもの」を変化させてしまうのだからだ。(東浩紀『観光客の哲学 増補版』ゲンロン/2023/p.366-367)

《eye》における手の連接は、イメージが手によって得られているだけでなく、操作されている/操作されうることも表現していると考えられる。ならば支持体の「片身替」の和紙は、自由電子の移動の有無、すなわちONとOFF、延いては0と1の二進法の表象だと知れる(描かれた複数の手が映像のノイズによって乱れたような《bug》(726mm×606mm)という作品も併せて展示されているので曲解とは言えまい)。言うまでも無く、デジタル(digital)の中にも指(digitus)は潜んでいる。
軸装された作品《kirameki》には、《eye》と同じ描法の手(3つ)とともに輪郭線だけのもの(1つ)、たらし込みによるもの(2つ)とが絡み合って描かれている。手の集には、グラフィティのような黒い線が断続して描かれ、さらに画面には煌めきを表わす星型が鏤められている。《kirameki》こそタッチパネルを主題にした作品であろう。煌めきとはバックライトであり、手のイメージは操作、入力、出力を表わし、断片的なグラフィティは改変されるイメージを象徴するものと解される。
「取るに足りない」とは、些細なこと(trifle)ではなく、取る("又"は"手"の象形である)が足らないという、情報の氾濫により「知足」に至ることのない現状を憂えているようだ。