コラン・ニエル『悪なき殺人』〔新潮文庫ニ-4-1〕新潮社(2023)を読了しての備忘録
Colin Niel, 2017, "Seules les bêtes"
田中裕子訳
村出身の富豪の妻の失踪事件をきっかけにして明らかになる村の人々の姿を連作短篇小説のスタイルで描く。本作を原作とする映画『悪なき殺人(Seules les bêtes)』(2019)は2021年に日本で上映された。
フランス中央高地のカルスト台地に広がる農村。ギョーム・デュカは畜産を継がずパリに出てアフリカの開発事業などで巨万の富を築いた。彼はパリの本宅に加え、村で新たな事業を立ち上げるため15年ぶりに帰郷し、瀟洒な別宅を構えた。ところが彼の妻エヴリーヌ・デュカが冬の真っ只中に失踪し、気象条件もあって捜索は難航する。
アリスは今は施設にいる父親の牧場を夫ミシェルに任せ、自らは農協のソーシャルワーカーとして高齢者や独居者などを巡廻し、支援策を提案し、手続きを行っている。ミシェルとの関係が冷え切っていたアリスは、独身で牧場を経営する謙虚なジョゼフに執心し、関係を持つ。以後、2週間に1度のペースで不倫を重ねたが、エヴリーヌ・デュカの失踪と同時期に突然ジョゼフはアリスを受け入れなくなる。
(略)ひとりきりでの生活を余儀なくされ、どんなに苦しんでいても、プライドが邪魔して他人に助けを求められない人たち。(コラン・ニエル〔田中裕子〕『悪なき殺人』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.36-37)
アリスが救いの手を差し伸べようとするのはそんな孤独な牧畜家たちである。フランスの農民たちと日本の男性たちの間に物理的距離ほどの疎隔はないのかもしれない。それが山本文緒『自転しながら公転する』の以下の箇所である。
「貫一さんはまだ若いのに、古いタイプのニッポン男児って感じがじますよ。ただの僕の印象だけど、地方に住んでる人は若くてもちょっと考え方が古い人が多いよね。まあそれはベトナムでもそう。日本の男性の自殺率が高いのは、ニッポン男児たるもの人に物事を相談してはいけないっていう考えに縛られてるんじゃないですかね」
それまでとは違う低い温度の声に、都は言葉を失った。
「女じゃないんだから愚痴ったり、友達同士で共感ごっこをしたりしない。男は自分の能力ですべて問題解決できるって根拠のないプライドがあって、たとえ困ったことが起きてもその自尊心が邪魔して誰にも相談できない。そして自滅。そんなふうじゃない?」(山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.566)
孤独の問題は局地的な問題では無い。
ジョゼフは独り言ちる。
(略)おれにとって女っていうのは、よくわからない別世界に住んでる生きものだ。おれの居場所なんてないような、きれいなものばかりある世界。女と話をするのは苦手だけど、姿を見たり、声を聞いたりするのは好きだった。女のからだは心地より何かが立ちのぼっていて、それは男にはない、どう探しても見つからないものだと思った。おれもそういうのがひとり欲しかった。心の中で思い描いてきた女。一緒にカルスト台地で暮らすことに同意してくれる女。家じゅうを笑顔で満たしてくれる女。そんなにつらい時でもそばにいてくれる女。酷寒の冬でも、オオカミに襲われた羊が内臓を露わにして死んでるのを朝方に見つけた時でも、てめえのそばにいてくれる女。嫌な顔ひとつせずに農場の仕事を手伝ってくれる女。でも、そんなものは見つからなかった。あるいは。おれが探さなかっただけかもしれない。本当のことはよくわからない。もしかしたらそんな女はどこにもいないのかもしれない。(コラン・ニエル〔田中裕子〕『悪なき殺人』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.103)
アリスとの関係は「腹の中の塊」として表現される「孤独」を大きくしてしまう。そんなときジョゼフは「エヴリーヌ・デュカ」と出遭う。
(略)「おまえは理想が高すぎるから相手が見つからない」と言われた、その理想こそが彼女だった。現実の女の中におれの理想はいない。それに気づかなかったから、一緒にいたい相手がずっと見つからなかったのだ。(コラン・ニエル〔田中裕子〕『悪なき殺人』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.168)
水が少しずつカルスト台地を溶かしドリーネを形成するように、ジョゼフには深い闇が腹の中に形成されていたのだ。この辺りはホラーである。
ジョゼフは女性の物理的な存在に執着し、ミシェルは(結局は)執着しない。それは対象との出会いが実物であったかイメージであったかの違いでもある。ジョゼフはモノの所有によりこれまで感じてきた孤独(「腹の中の塊」)を感じなくなるが、モノを失って――それこそアリスとの関係を持つ前後どころではない――絶望的な孤独に陥ることになる。
物理的実在に固執しないミシェルの発想は、例えば、種々のフィクションのキャラクターを愛好するのと異なるところはない。
あるいは、呪(まじな)いに傾倒する少年と、開発事業で成功するギョーム・デュカとは、ルールに従ってプレイしているという点で等しい。
ジョゼフの「モノ」に対する執着についてもそうであるが、作家は極端な事象を扱うことで、物事を相対化する眼差しを提示している。