展覧会『教壇に立った鷗外先生』を鑑賞しての備忘録
文京区立森鷗外記念館にて、2024年4月13日~6月30日。
陸軍軍医でドイツ留学経験のあった森鷗外(1862-1922)は、陸軍軍医学校で衛生学を講じるだけでなく、文学・美術など西欧文化に通じていたことから、東京美術学校で芸用解体学(美術解剖学)・審美学(美学)・西洋美術史を、慶應義塾大学部で審美学をそれぞれ講じた。衛生学や美術解剖学・美学への貢献を「教壇に立った鷗外先生」と題して展観する。併せて、明治書院の『中等国語読本』や修身の国定教科書の編纂に携わった業績を「教科書と鷗外」として紹介する。
1881年に東京大学医学部を卒業。28名のうち軍医になったのは鷗外を含め9名。1882年に東亜医学校で生理学を担当したのが鷗外が教壇に立つ初めだった。1884年に衛生学の調査のため渡独。帰国後の1888年に陸軍軍医学舎の教官となる。1889年には衛生学の教科書『陸軍衛生教程』を刊行する他、『東京医事新誌』の主筆として医事評論を執筆。兵食の栄養について研究を行い、ドイツ語の論文"Japanischen Militaeraerztlichen"(日本軍兵士の食事に関する研究)(1892)にまとめたり、居住に適切な湿度の調査を行ったりしている(『壁湿検定報告』(1891))。因みに鷗外らが用いたソックスレー抽出器や、ケルダール法は現在でも用いられる定量の手法という。1896~1897年には『衛生学教科書 上・下』を刊行。通信教材『女学講義録』に連載した内容をまとめた『衛生学大意』(1907)により、衛生学の啓蒙も図っている。
鷗外は自ら主宰した文芸評論誌『しがらみ草子』においてハルトマンの美学に基づき文学・芸術評論を手掛けていた。東京専門学校の文学科の開設(1890)に尽力した坪内逍遙は審美学の講師に鷗外を招こうとしていた(1891年8月30日付の坪内逍遙筆鷗外宛書簡)。ところがその直後に鷗外が逍遙の文学をハルトマン美学で評したことをきっかけに「没理想論争」が起こり、どうやら話は立ち消えになったらしい。
1889年に開校した東京美術学校は、2代校長岡倉天心のもとで日本美術復興の方針を採用していたが、美術解剖学、美学、西洋美術史といった基礎教育にも力を入れていた。鷗外は1891年から造形的解体学(美術解剖学)の講義を担当。日清戦争の勃発で解嘱となるが、戦後の1896年、今度は美学と西洋美術史で教壇に立つことになった(1899年に鷗外が小倉に赴任するまで)。 Julius Kollmannの"Plastische Anatomie des menschlichen Körpers"を粉本として美術解剖学の教科書『芸用解体学』を執筆している。鷗外旧蔵のWilhelm Lübkeの美術史の概説書"Grundriss der Kunstgeschichte"は天心も美学及び美術史の講義で用いたという。
鷗外の旧蔵書では、Eduard Von Hartmannの"Aesthetik"が重要である。『しがらみ草子』に連載した「審美論」や、大村西崖と編集した『審美綱領』(1899)の原典であった。因みに、大村西崖は、小倉赴任に伴い去った鷗外に代わり、慶應義塾で審美学を講じた。