可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『蟲』

映画『蟲』を鑑賞しての備忘録
2025年、日本製作。
90分。
監督・脚本は、平波亘。
原案は、江戸川乱歩の小説『蟲』。
脚本協力は、鈴木理恵
企画・プロデュースは、佐藤友彦。
撮影は、神野誉晃。
照明は、津覇実人。
録音は、百瀬賢一。
美術は、三藤秀次。
スタイリストは、中村もやし。
ヘアメイクは、河本花葉。
編集は、遊佐和寿。
音楽は、三島ゆう。

 

此ハ私ガ記録シタ或ル人間ノ雄ト雌ニ因ル醜クテ愚カデトテモ奇妙ナ物語デス。
古い木造家屋。蝿の羽音がする。池内光太郎(木口健太)が現われ柾木を呼びながら玄関の引き戸を叩く。柾木愛之助(平埜生成)が渋々現われ戸を開ける。カーテンを閉め切った散らかった部屋。ラップトップを置いた卓袱台の周囲には映画のヴィデオカセットが並ぶ棚があり、その脇には万年床がある。お邪魔します。ハジメマシテ。私ハ愛ト言イマス。柱に設置されたスマートスピーカー(山田キヌヲ)が池内に挨拶する。池内です。池内サンコンニチハ。金魚どうした? ダニエル? アイツは死んだ。半年前に。生き物はどうせ死ぬ。命と付き合う機会なんて無かったしな。AIなら死なないし、余計なことを言わない。池内が知り合いの紹介で断り切れなくてと言いながら舞台のチラシを差し出す。大衆小説で人気を博した江川蘭の『捕食者』を原作とする劇団COBRAの公演だった。一緒に見に行かないか? どうせ暇だろ? お前に足りないのはインプット、刺激だよ。分かったようなこと言うな。お前さあ、10年だぞ。死んだ親御さんの生命保険食い潰して。映画作らないか? いい加減引き籠もるの止めてさ、一緒に世界を目指そうぜ。池内が柾木の背中に抱きつく。柾木は池内を激しく振り払った際に池内の顔を殴ってしまう。
池内が帰った後、柾木がチケット8000円は高いと愚痴る。AIマートスピーカーがお金を出さないのに文句だけは言うのですねとツッコむ。
本所松坂亭劇場。劇団COBRAの公演『捕食者』。芝居はクライマックスを迎えている。幸せ? 何それ? 赤い光を浴びて、木下芙蓉(佐藤里菜)演じる女性が刃物を手に若林健光(細川佳央)演じる男性に対峙する。既に2人が女性に刺され倒れている。どれだけ欲望の限りを尽しても満たされることなんてないわ。この思いだけは永遠に変わらない。永遠に消えないの。私のこと、愛してますか? 女性が男性の腹部に刃物を突き立てる。人ではないのかもしれない。人でないなら一体何? 暗転。再び灯りが点くと4人の役者が舞台に並び頭を下げる。拍手が起こる。
居酒屋。柾木は池内を相手に江川蘭への冒瀆だの一辺倒で芸がないだの独り善がりだのと猛烈に芝居を批判する。一頻り捲し立てた柾木が帰ろうと席を立つ。池内がもう少しいるようにと柾木を止める。池内さん! ちょうどそこへ木下芙蓉がやって来た。『闇のレクイエム』の柾木監督にお会いできて光栄です。舞台を観に来て下さるなんてありがとうございます。私、木下芙蓉です。美しい芙蓉に監督として敬意を払われた柾木は打って変わって気分を良くする。初めまして、柾木愛之助です。

 

映画監督の柾木愛之助(平埜生成)は死別した両親の生命保険で食いつなぎ、10年間も老朽化した木造家屋に引き籠もっている。スマートスピーカー(山田キヌヲ)を除けば唯一の話し相手である友人・池内光太郎(木口健太)は柾木を見捨てず、映画制作の参考にもなると大衆小説で人気を博した江川蘭原作の舞台『捕食者』に柾木を連れ出した。観劇後居酒屋で池内を相手に芝居を酷評する柾木だったが、主演女優・木下芙蓉(佐藤里菜)に『闇のレクイエム』の監督として敬意を表されるとすっかり気分を良くする。江川蘭の娯楽性の背後にある思想を掴んでいると芙蓉を激賞し、悪いのは相手役の若林健光(細川佳央)と脚本・演出の番堂俊作(橋野純平)だと言い放つ。新作を観たいと言う芙蓉に女優だったら出たいだろと窘める池内。2人の関係性に嫉妬しつつ、芙蓉にミューズを見出した柾木は映画制作の意欲を搔き立てられた。芙蓉を主演に即座に脚本を書き上げた柾木は自信を持って池内に見せるが、渋い顔をされる。『捨て猫が恋をした』は芸術性にも娯楽性も欠いていた。それでも柾木は芙蓉を駅で待ち伏せして脚本を読ませる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

柾木愛之助は学生時代に『闇のレクイエム』で称讃された映画監督だが、その評価が却って柾木の足枷になり10年間引き籠もって脚本の1本も書けていない。その癖高い自己評価のために他者に対する批評は辛辣だ。友人の池内光太郎に連れ出されて観劇した作品の主演女優・木下芙蓉をミューズと惚れ込んだ柾木は、芙蓉主演で当て書きした脚本『捨て猫が恋をした』を即座に書き上げるが池内でさえ褒めるべき点が見出せない。それでも自らの才能に自信を持つ柾木は芙蓉に脚本を読ませる。芙蓉はざっと目を通しただけですぐさま駄作と見抜く。柾木に待ち伏せされた上に下らない脚本を読まされ、さらには手を握られた芙蓉は嗤ってその場をやり過ごすしかない。柾木は笑われつつも芙蓉に対する執着を募らせる。
カーテンを閉ざした部屋に閉じ籠もり辛らつな批評をする柾木は、匿名で書き込みをするネット民のメタファーである。生身の人間ではなくインターネット上で自らの目に留まった情報を相手にしている。グラヴィアモデルとして活動していた芙蓉の水着姿は写真=情報に過ぎず一方的に眺めて自らのミューズを見出すことが可能であるが、俳優として舞台に立ち酒席をともにする芙蓉は生身の人間であるために自分の望まない言動に戸惑い、心を傷つけられもする。もしも強いて相手を自分の思い通りにしようとするするなら、相手を人形として扱うのに等しい。最終盤で柾木が手にする眼球は、相手の眼差し、批判の封殺を暗示するのである。
江戸川乱歩の小説『蟲』では、エドガー・アラン・ポー[Edgar Allan Poe]の「群衆の人[The Man of the Crowd]」に比される柾木が池内と芙蓉との逢瀬の尾行・隙見を繰り返す。その一方的な追跡と眼差しをネットにおける情報収集・閲覧に重ね作品を現代に蘇らせる試みである。その際、乱歩作品における柾木の尾行・窃視行為を、本作では池内に想いを寄せ監視カメラを設置する小林(北原帆夏)として別人格にする点、また池内が柾木に対して一途に献身的なキャラクターに変えるに辺り、池内をバイセクシャルとして同性愛を介在させている点に大きな改変がある。さらに原作では(女性の)美の恒久化の不可能性を不可視の蟲との攻防として描くが、本作ではジョン・エヴァレット・ミレー[John Everett Millais]の絵画《オフィーリア[Ophelia]》のように凍結させようとして徒労に帰すことを腐敗を象徴する蝿によって可視化する。

展覧会 中町優作個展『モナドの窓』

展覧会『中町優作個展「モナドの窓」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2025年10月13日~18日。

「人生とは、絵画とは、窓のない密室であり壮大なオルゴールである」とする中町優作の絵画展。

《line of sight》(920mm×727mm)の画面は、黒、白、ベージュ、朱、ペールオレンジののた打つ線で埋め尽くされている。火山の熔岩と噴煙のような混沌としたイメージの中央右に。ベージュの肌に黒い眉や鼻と口の影、朱の目、すなわち顔がある。シミュラクラ現象により顔を認識してしまっているのではないようだ。他のいずれの作品にも顔や身体など人の姿が現わされているからである。
《flow line》(1455mm×1455mm)には、黒、白、ペールオレンジ、山吹、暗赤色などの混沌とした画面に複数の人物が溶け込む。黒と主に画面の縁に配された暗赤色に対し、白の明るさが強調される混沌のしたイメージの上部には4つの顔が並び、そこから4人の人物の上半身が何とか認識出来る。両手を頭の後ろに廻して肘を持ち上げる中央の人物の姿に、パブロ・ピカソ[Pablo Picasso]の《アビニヨンの娘たち[Les Demoiselles d'Avignon]》の構図の影響を見て取れよう。《flow line》の類例作品に、画面中央付近に4つの顔を並べた《treffen》(910mm×1167mm)がある。
本展のキーヴィジュアル《left waiting》(1650mm×1650mm)の画面中央やや右には、くオーギュスト・ロダン[Auguste Rodin]の《考える人[Le Penseur]》を想起させる、右膝の上に右肘を突いて坐る人物がいて、4人の人物が囲む。《アビニヨンの娘たち》やポール・セザンヌ[Paul Cézanne]の水浴図など、ヌード群像の系譜に連なる作品である。《flow line》や《treffen》と同系の作品であるが、ベビーピンクの肌の人物はより明快に表される。「考える人」の周囲に立つ人物3人が画面右上に凝集する形で配されるのに対し、やや離れた画面左下でしゃがむ人物は頭部や肩・胸に比して手が大きく引き延ばされることで、拡散の力を生む。《flow line》が暗赤色を周囲に置いたのに対し、《left waiting》は山吹色を画面の縁に配する。因みに、明暗の効果の探究は、闇の中に2人の鬼のような人物の頭部を配した《scotoma》(727mm×606mm)や《scotoma #2》(530mm×652mm)でも試みられている
《while crying》(530mm×455mm)は黒と茶の縦方向を中心とした描線の背景に佇む人物を灰色で表した作品。両脚をやや開いて立つ人物は肘を曲げた右手を僅かに持ち上げる。特徴的な頭部は煙のような朦朧とした流体で闇の中に霧消していく。左手奥には白い人影と見えなくもないイメージ、人物の右側には箱か何かの中から灰色の煙(?)が立ち上るようでもあるが判然としない。《艶》(455mm×380mm)は、茶。黒、白の縦方向の描線の中に灰色の人物の上半身を表す。正面右側から捉えられた人物の頭部は下に向けられ俯くようだが流体のような模糊とした頭部のために表情は窺えない。《alternative》(455mm×380mm)は、黒、茶で人物の腰の辺りまでを表した作品。真正面から描かれた人物は右に頭を傾げるが他の部位に比べても曖昧な頭部で表情を把握しかねる。
展覧会タイトルは、ゴットフリート・ライプニッツ[Gottfried Leibniz]のモナド[Monad]に由来する。世界の基本構成単位であるモナドには窓はないとされる、そのモナドの窓を敢てタイトルに掲げている。 ルネサンスの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティ[Leon Battista Alberti]は『絵画論[De pictura]』において絵画を窓に比すなど、絵画は窓に擬えられてきた。作家は絵画と人間とを同一視し、その不可視の部分を含めた全体として捉えようと目論むようだ。作家の問題意識は大陸合理論よりもむしろ大乗仏教に通じるようであるが、どうであろうか。

 (略)大海から生まれたばかりの無垢なる無人島を訪れた、あるいはそこに流れ着いた、1人の無垢なる少年(少女であってもかまわない)が、どのような体験をするのかを考えてみる。それは、「空」を体得するために、「空」なる場所を訪れ、他者に煩わされることなく、まったくの孤独な静寂のうちに止観、つまりは心の動きを「止め」)(止)、寂滅したその心のなかから湧き上がってくる風光、心そのものである風光を「観る」(「観」)というゴータマ・シッダッタに由来するとともに、大乗仏教が磨き上げてきた手法の隠喩でもある。
 他者がまったく存在しなくなってしまったとき、この「私」は一体どうなってしまうのであろうか。他者は、この「私」をこの「世界」に引き留めてくれている最も重要な要素であり、最も重要なメカニズム(機構)をなしている。他者が存在することではじめて、「私」は「世界」と適切な距離を保つことができる。もし他者がまったく存在しなくなってしまったとするならば、「私」と「世界」との間の距離が廃棄され、「私
と世界」は1つに重なり合ってしまうだろう。「私」の意識はそっくりそのまま無人島の意識となり、「私」の身体はそっくりそのまま無人島の身体となる。主観と客観、精神と物質、内部と外部の区別が消滅してしまう。大乗仏教が求めているのは、そのような体験である。無垢なる「私」と無垢なる「世界」が1つに重なり合う。果たして、そのような事態は本当に可能なのだろうか。もし可能であるとしてもただ狂気としてしか、正常を逸脱した倒錯としてしか、把握出来ない体験ではないのか。あるいは、憑依によって自他の区別が消滅し、森羅万象あらゆるものが1つに入り混じるという体験としてしか把握出来ないものではないのか……。大乗仏教は、そのような異様な体験に明確な論理を与えようとする。狂気に、倒錯に、憑依に、論理が与えられるのだ。狂気が、倒錯が、憑依が、論理として磨き上げられていく。その果てにいったいどのうな認識がひらかれようとしているのか。(安藤礼二空海講談社/2025/p.136-137)

 

展覧会 倉敷安耶個展『祖母は屋敷にひとりで住んでいた。』

展覧会『倉敷安耶「祖母は屋敷にひとりで住んでいた。」』を鑑賞しての備忘録
LAG(LIVE ART GALLERY)にて、2025年10月3日~18日。

外国寺院居留地のあった神戸近郊に元はゼネラル・エレクトリック社が幹部用社宅として建設し、後には祖母が一人暮らしをしていた洋館を舞台にした写真「セルフポートレート:祖母の服を着た」シリーズを中心とする、倉敷安耶の個展。

「セルフポートレート:祖母の服を着た」シリーズは、現在は父親の事務所(レースカーテンの窓越しに椅子に坐りパッドを操作する父親の後ろ姿を捉えた《父》(178mm×127mm))と倉庫を兼ねる、亡き祖母が一人暮らしをしていた洋館(正面からの外観を捉えた《祖母の家》(1120mm×1455mm)を舞台に、祖母に似る作家が祖母の服を身につけた自らを被写体に撮影した写真群。《セルフポートレート:祖母の服を着た #06》(210mm×297mm)は、ビニールをかけた家具などがいっぱいの締め切った暗い部屋で、カーテンを半ば開けた窓の前に坐る黒い衣装を身に付けた姿を捉える。複数の白い花のシェードを持つ天井灯は消され、薄闇の中に雑多な物と作家とは黒い影として一体となる。《セルフポートレート:祖母の服を着た #04》(297mm×210mm)は、暗い通路の奥に窓のある小部屋に坐る白いブラウスとスカートを身につけた作家が坐る姿を捉える。正面に木の影だけが淡く映る窓があり、通路に置かれた物は闇に沈む。窓の手前のキャビネットの上には籠やレジ袋に入った雑多なものが並ぶ。窓を見詰めて坐る作家の姿は入口脇の壁に半ば隠れている。《セルフポートレート:祖母の服を着た #03》(297mm×210mm)は2階の廊下に出てきた黒い衣装の作家を捉える。右手前から中央に向かって階段の手摺が伸びる。その奥に作家の姿がブレて現わされる。奥の窓が外光で白く光るが、通路のキャビネットなどで半ば隠される。とりわけ手摺の凭せ掛けた捲いた絨毯が宙空に突き出ているのが印象的である。《セルフポートレート:祖母の服を着た #02》(297mm×210mm)には、白いブラウスに黒いスカートの作家が裸足で階段状に立つ姿が映る。背後の窓から入る外光によって作家の頭部が半ば消えている。壁、階段、手摺の作る線が窓の光に向かう効果線として機能する。《セルフポートレート:祖母の服を着た #05》(297mm×210mm)には、階段脇、玄関の前に立つ作家のシルエットが浮かぶ。作家の立つ玄関前の天井には緑のガラス製ランプが浮かび、輝いている。だがその光はレースカーテンを閉めた窓からの光よりも弱く、却って室内の暗さが際立つ。《セルフポートレート:祖母の服を着た #08》(297mm×210mm)は、左側に流し、右側に冷蔵庫、手前にガラスケースや段ボールなどが積まれたキッチンで撮影された作品で、奥にある勝手口(?)に向かうブラウスとスカートの作家が見える。キッチンが使われていないことから起居の場として建物が使われていないことが分かる。《セルフポートレート:祖母の服を着た #09》(210mm×297mm)には、ビニールを掛けた家具や何かを詰めた黒いビニール袋が多数置かれた部屋の中央で黒い衣装の作家が起ち上がる姿が捉えられている。カーテンは開けられ窓からは光が射し込み、その光によって作家はシルエットになる。なおかつ何かの上に立っている作家は頭を下げるような動作により上半身がブレている。《セルフポートレート:祖母の服を着た #10》(297mm×210mm)には窓際に佇む白いブラウスに黒いスカートの作家の姿が映される。窓台に右手を置きやや俯く作家の周囲には、衣装を掛けたラック、梱包材に覆われた段ボールなどが並ぶ。物が置かれた通路越しに捉えられ、手前に拡がる闇が強調される。《セルフポートレート:祖母の服を着た #07》(210mm×297mm)では、カーテンを閉ざした暗い部屋の姿見に向かいの部屋に坐る作家の姿が映り込んでいる。。《セルフポートレート:祖母の服を着た #08》(297mm×210mm)は、手前の部屋から開かれた扉の奥を左から右に歩く作家の姿を捉えた作品。背後からの外光で明るい手前の部屋に対し、荷物の溢れる奥の部屋は暗い。作家の上半身のブレで通り抜ける運動が表現される。
階段室の宙空に突き出した絨毯は依代として霊を呼び寄せる。作家は亡き祖母の衣装を身につけることで祖母に憑依される。死者の存在は、影あるいは鏡像として、あるいはイメージのブレが象徴する変遷によるセルフポートレートは、窓や玄関といった境界、そして何より闇と光との間(はざま)を舞台にすることによって、現在に存在可能となる。
植栽に囲まれた洋館の正面を映した《祖母の家》は敢て落剥が施され穴が穿たれている。経年により喪失を擬態するのではない。失われたものを充填するための余地を生み出すのだ。ところで、ポルターガイスト[Poltergeist]の1つに電気の明滅がある。科学的見地からすれば噴飯ものの現象かもしれない。だが心霊現象はテクノロジーに結び付く。テクノロジーが発達して不可視の領域が拡がれば拡がるほど、両者の結び付きは却って容易にさえなるだろう。科学やテクノロジーではカヴァーできない領域、穴は常に存在するのであり、むしろ穴の存在を忘却することの方が恐ろしいとは言えまいか。《祖母の家》では暗い室内に電灯が灯るのが見える。闇=死者の存在を浮かび上がらせるのは、ゼネラル・エレクトリック社のような電力会社の電気ではなく、闇=死者に眼差しを向ける智慧である。会場には作家の祖母の鏡とテーブルランプが置かれている。祖母≒死者の光による啓蒙[enlightment]。

展覧会 鈴木のぞみ個展『Slow Glass―The Mirror, the Window, and the Door』

展覧会『鈴木のぞみ「Slow Glass―The Mirror, the Window, and the Door」』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2025年10月3日~26日。

窓や扉のガラス、あるいは鏡台やコンパクトなどの鏡に直接写真乳剤を塗布し光を定着させる技法の作品で構成される、鈴木のぞみの個展。展覧会に冠した"Slow Glass"は、ボブ・ショウ[Bob Shaw]の短編小説"Light of Other Days"に登場する、過去の光を遅れて届ける空想上のガラスに因む。

エレベーターホールから向かいの壁面までの通路に、アルミ製の扉《The Light of Other Days: 白河二丁目会会館勝手口の扉》(1700mm×710mm×165mm)(2018)が吊されている。扉の斜め格子の網入り曇りガラスの窓に、階段、植栽、自転車、扉などが映り込む。「写真は光と時間の化石である」と述べる森山大道は街を彷徨してスナップする際に自らの姿を取り込み、野良犬のような作家性を刻印した。作家はカメラが切り取る景観を前にしている。それに対し作家は建物の見ていた光景を記録する。作家は扉という観察者=撮影者を介在させることで窓に撮影対象との距離があると言える。恰も星の光のように、光が届くのに時間の経過が不可避で、作品は"Slow Glass"そのものと言えよう。宙空に浮かぶ扉は恰もSF作品に登場する「ポータル[portal]」よろしく鑑賞者を異なる時空へと誘うのである。
通路を行き当たりで右に折れると、光景を焼き付けた窓や鏡12点が並ぶ。いずれも壁沿いに設置されている中に1点「理容ヨシダ」の扉《Light of Other Days: 吉田理容室入口の扉》(1800mm×720mm×160mm)(2022)だけ展示室の中央に天井から提げられている。窓ガラスには家並や植栽といった奥が映る。店内の3つ並んだ鏡《Light of Other Days: 吉田理容室壁に設えた大きな3枚の鏡》(1800mm×720mm×160mm)(2022)や窓《Light of Other Days: 吉田理容室西の窓》(1080mm×790mm×60mm)(2022)が1つの壁面に設えられているが、扉の周囲と鏡や窓とに空間が拡がり、なおかつ理容ヨシダ以外の窓や家具が並んでいることから、理容室の店内としてのまとまりは断ち切られる。扉の外としての屋外が会場内に孕まれつつ、鏡や窓の作品によって再び屋内に入り込まされる。複数のウィンドウはお互いに独立した平行世界を暗示する。
机や壁を映す《Mirrors: 鈴木邸寝室の姿見》(1480mm×360mm×390mm)(2017) 、絨毯を敷いた上に椅子と鏡台が置かれ鏡に襖が見える《Mirrors: 荻野邸和室の鏡台》(1240mm×710mm×290mm)(2017) など無人の室内景観を目にしている際には気付きづらいが、鑑賞行為は他人の私生活を覗き見るのに等しい。しかしながら、湯船の女性を捉えた丸鏡《Mirrors: 鈴木邸風呂の丸鏡》(φ350mm×50mm)(2017) 、キャビネットの上に置かれた化粧する女性の顔が覗くコンパクトの鏡《Mirrors: 茂木邸コンパクト》(φ70mm×90mm×98mm)(2017) 、ネクタイを締める男性のややブレた姿が残る洋服ダンスの鏡《Mirrors: 鈴木邸寝室の姿見》(1480mm×360mm×390mm)(2017) など登場人物が入浴、化粧、着替えといった動作に耽っている状況を撮影した作品では、覗き行為としての性格が浮かび上がる。ところで、都市生活者が推理小説――そしてあらゆるジャンルに見られるサスペンス作品――を必要とするのは、常に素性を知らない他者によって囲まれているからである。シャーロック・ホームズのように観察を怠らずに断片的な知識から他者を判断・評価しなくてはならない。"Slow Glass"は言わば探偵が探し廻る過去の痕跡であり、同時に都市生活者が生きるための術でもある。