可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 須田日菜子個展『噛み合わない会話』

展覧会『須田日菜子「噛み合わない会話」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2024年4月6日~21日。

スプレーを用いて限られた数の線で身体を描き出した「Discordant conversation」シリーズを中心とする、須田日菜子の個展。

展覧会 林銘君個展『霧』

展覧会『林銘君展「霧」』を鑑賞しての備忘録
新生堂にて、2024年4月4日~19日。

円で抽象的に表わされた殻を持つカタツムリと衝立・屏風あるいは額縁をモティーフとした墨絵で構成される、林銘君の個展。

表題作《霧》(600mm×2730mm)は、それぞれに、暗い空間内に、霧の中に葉の繁る樹木が姿を見せる衝立と黒い円で抽象的に表わされた殻を持つカタツムリとを描いた横長の画面(600mm×910mm)を3つ横に並べて構成した作品である。右の画面には、いずれも画面左下方向に向いた衝立が9枚、不均衡な間隔でずらして置かれている。いずれの衝立も2本の足で支えられ、樹木の繁った葉が画面下側に描かれている。衝立の足の傍らには、黒い円だけで表わした殻を持つカタツムリが8匹ほど散らばる。中央の画面には4枚の衝立が向きもばらばらに4枚、カタツムリが4匹(2つの黒い円も数に入れれば6匹)、左の画面には向きを違えた3枚の衝立と5匹のカタツムリが描かれる。右と中央の画面とに跨がる形でもう1枚の衝立が描かれる。右から左へ、衝立とカタツムリの数が減り、その分画面に占める暗い空間の比率が高まる。それに加え、衝立に描かれた樹影も右から左へ次第に濃くなる霧により姿を消していく。衝立とカタツムリ以外に何もない空間は暗い。光源もない。そのために衝立の画面が液晶ディスプレイの如く発光しているように感じられる。何より作品を独特なものにするのは、黒い円で表わされたカタツムリの殻である。黒い円には陰影・濃淡もなく平面的で、球でもない。触覚や足などの詳細に描かれる軟体に比して、その幾何学的抽象性が目を引く。なぜカタツムリの殻は黒い円として表わされたのであろうか。

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『リチャード二世(Richard Ⅱ)』の第2幕第2場冒頭では、遠征に出た王に凶事が起こるに違いないとの不安に悩まされる王妃を王の僕ブッシーが慰める。

(略)歪像anamorphosisの隠喩を用いて、ブッシーは王妃に、彼女の悲しみには根拠がなく、なんの理由もないことを納得させようとする。だが重要な点は、彼の隠喩が分裂して二重になっている、つまりブッシー自身が矛盾に陥っていることである。彼は最初(「悲しみの目は涙に曇っておりますので、1つのものがいくつにも分かれて見えるのでございます」)、「本質的な」物そのもの、すなわち実物と、その「影」、つまりわれわれの眼に映った反映、不安や悲しみによって増幅された主観的印象という、単純で常識的な区別を持ち出す。不安があるときは、ちょっとした問題がたいへんなことのように思われ、物事が実際よりもはるかに悪く見えるものだ。ここではそうしたことが、物がいくつも映って見えるようにカットされたグラスの表現に譬えられている。われわれの目に見えるのは、小さな実体ではなく、その「20もの影」なのだ。ところが、それに続く部分では事態が複雑になる。表面的には、シェイクスピアが、「悲しみの目は……1つのものがいくつにも分かれて見える」という事実を、絵画の分野から借りてきた隠喩(「正面から見ると何1つ見えないのに、斜めから見るとはっきり形が見える
あの透視画法と同じです」)で例証しているかのようにみえるが、じつはシェイクスピアはここで領域を根本から変化させている。つまり、カットグラスの表面という隠喩から歪像という隠喩に移行している。この2つの隠喩の論理はまるで異なる。「正面から見る」、つまりまっすぐな視線で見るとぼんやりした染みに見えるある絵画の細部が、「斜めから」、つまりある一定の角度から見ると、はっきりとした形に見えてくるのである。したがって、王妃の不安と悲しみにこの隠喩をあてはめている台詞はきわめてアンビヴァレントである。したがって、王妃の不安と悲しみにこの隠喩をあてはめている台詞はきわめてアンビヴァレントである――「お妃様もそれと同じように、王様のご出立を斜めからごらんになっておられるために悲しみの幻がたくさん見えて、それでお嘆きになるのです。それは、あるがままにご覧になれば、ありもしないものの影にすぎません」。言い換えると、王妃の視線を歪んだ視線に譬えるこの隠喩を文字通りにとるならば、次のように言わねばならない――ぼんやりと混乱したものしか見えない「まっすぐな」視線とは対照的に、まさしく「斜めに見る」、つまりある一定の角度から見ることによって、王妃には物のはっきりと際立った形が見えるのである、と((略))。だが、もちろん、ブッシーはこのことが「言いたい」のではない。彼の意図はそれとは正反対である。ブッシーは気づかれないようにごまかしながら、第一の隠喩(カットグラスの表面)に戻り、次のようなことを「言おうと意図している」――悲しみと不安で目が曇っているので、王妃には心配の種が見えるのだが、もっと冷静によく見てみれば、心配することは何もないのだということがわかる、と。
 したがって、ここにあるのは2つの現実、2つの「実体」である。第1の隠喩のレベルに見出されるのは常識的な現実であり、それは「20の影をもった実体」として、つまりわれわれの主観的な視線によって20の反映に分裂している物として、要するに、われわれの主観的な視線によって歪められた実体的「現実」として、見られている。ある物をまっすぐに冷静に見れば、その「本当の姿」が見えるが、欲望と不安によって曇った目で見ると(「斜めから見ると」)ぼんやりと歪んだ像しか見えない。しかし、第2の隠喩のレベルでは、関係は正反対になる。ある物をまっすぐに、冷静に、偏見を捨てて、客観的に見ると、ぼんやりとした染みしか見えない。「ある角度から」、「関心をもって」、つまり欲望に支えられ、貫かれ、「歪められ」た視線で見たときにはじめて、はっきりとした形が見えてくる。このことは〈対象a〉、すなわち欲望の対象=原因の完璧な説明になっている。〈対象a〉とは、ある意味で、欲望によって仮定された対象である。つまり、〈対象a〉とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象であり、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。言い換えれば、〈対象a〉は、その定義からして、つねに歪んで知覚されるものであり、その「本質」であるこの歪曲を抜きにしていは存在しないのである。なぜなら〈対象a〉とは、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。王妃がブッシーに向かってきわめて正確に述べているように、〈対象a〉とは、「私が悲しんでいる何か」であり、それは「虚しいもの」から生まれたのである。「何か」(欲望の対象=原因)がその「無」、その空無を具現化し、それにポジティヴな存在を与えるとき、欲望が「めざめる」。この「何か」とは歪んだ対象であり、「斜めから見る」ときにしか見えない純粋な見かけである。これこそまさに、「何物も無からは生まれない」という悪名高き金言が偽りであることを暴露する、欲望の論理である。欲望の動きにおいては、「何かが無から生まれる」のである。なるほど欲望の対象=原因は純粋な見かけsemblanceにすぎないが、それでも、われわれの「物質的」で「実際的」な生活や行為を調整している一連の結果すべての引き金を引くのはこの見かけなのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995/p.32-35)

タツムリの殻を表わす黒い円とは、無の象徴である。殻とは空(から)であった。その殻=空から出た軟体、とりわけ大触覚とその先に付いた目とは、欲望のメタファーに他ならない。その構造の相似形が、衝立の画面(screen)に描かれた、霧の中から姿を見せる樹木に繁る葉のイメージであり、何も無い薄暗い空間とそこに置かれた衝立(screen)である。カタツムリの殻と軟体、霧と樹冠、空間と衝立と、三重の入れ籠の構造を採用したのは、欲望を充足させる手段(貨幣)が欲望の対象となる資本主義の構造のアナロジーとしてであろう。円は日本や中国においては貨幣単位(円・圓[yen]あるいは圆・元[yuán])ではないか。《霧》を始めとした墨絵で作家が表わすのは、資本主義社会における欲望であり、その無限の連鎖なのである。

本 岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』

岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』(岩波新書〔新赤版1992〕/岩波書店/2023年)を読了しての備忘録

男性中心主義の教理を有するキリスト教にはかつて多様な性の有り様があったことを、中世からルネサンスにかけての土着ないし異端の絵画・彫刻を通じて示す。使徒ヨハネイスカリオテのユダ聖母マリアそれぞれとキリストとの関係を紹介する第Ⅰ部と、女性・母胎としてのキリストや、三位一体に両性を組み込む女性としての精霊、さらにはその聖母マリアとの繋がりを明らかにする第Ⅱ部の2部構成。口絵22点を始め図版多数。

目次
はじめに
第Ⅰ部 クィアなキリスト
 第1章 キリストとヨハネ
 第2章 イスカリオテのユダとキリスト
 第3章 マリアとキリスト
第Ⅱ部 交差するジェンダー
 第4章 もしもキリストが女性だったら
 第5章 「傷(ウルヌス)」、「子宮(ウルウァ)」、「乳首(ウベル)」
 第6章 「スピリット」とは何か
おわりに
参考文献

第1章「キリストとヨハネ」では、「最後の晩餐」に描かれるヨハネが女性的に表現されその性が曖昧にされているのみならず、キリストとの愛を巡りマグダラのマリアとライヴァル関係にあったとの語りが存在した。第2章「イスカリオテのユダとキリスト」では、、ユダがキリストにキスする姿が描かれる「キリストの捕縛」の絵画を中心に、キリストが肉体を神に引き渡す(十字架にかかる)べく裏切り者の役割を特にユダに担わせたキリストとの特別な関係が示される。第3章「マリアとキリスト」では、マリアがキリストの母であるのみならず教会に擬えられ、かつキリストが教会を花嫁と捉えた場合に花婿とされることから、マリアはキリストの妻であると解釈されたことが「聖母の被昇天」の図像で明らかにされる。第4章「もしもキリストが女性だったら」では、キリストは必ずしも男性である必要はないという想像力が、結婚を拒み十字架にかけられた女性ウィルゲフォルティスの伝承との混同を生じさせ、異性装のキリスト磔刑図が描かれたことが引き合いに出される。第5章「『傷(ウルヌス)』、『子宮(ウルウァ)』、『乳首(ウベル』」では、十字架上のキリストの脇腹の傷が女性器として描かれた作例を通じ、傷口=女性器を通じたキリストとの一体化の理想が証される。また、母乳が月経として排出されなかった血液であるとの当時の生理学的理解から、キリストに豊かな乳房を具えさせることで聖母マリアの役割をも担わせた珍しい図像が紹介される。第6章「『スピリット』とは何か」では、精霊(スピリット)を愛(カリタスという女性名詞)や知恵(ソフィア、ホクマーといった女性名詞)と捉えたことから、精霊を象徴する鳩に聖母マリアが伴う「三位一体」の図像が描かれたことが語られる。

 ユダヤ教キリスト教における最初の人間アダムもどこかこれ〔引用者註:2つの性が分離する前の完全な人間の形象としてのアンドロキュノスの神話〕に近いところがある。神が自分にかたどって創造したというアダム、そしてそのアダム(の肋骨)からイヴがつくられることになるわけだが、そうであるからにはアダムのうちにすでに女性が存在していたことになる。しかも神がその原型である以上、神もまた両性をあわせもつ存在である。こうした神やアダムの両性具有性もまた、グノーシス主義においては疑う余地のないこととされる。そこにはおそらくプラトン的な考え方もこだましている。
 あるいは、高名な宗教学者ミルチャ・エリアーデ(1907-86)も明らかにしたように、両性具有における反対の一致という深遠な理念は、ギリシア神話ユダヤキリスト教だけに限らず、およそあらゆる宗教に通底する文化横断的な神話の原型とみなすこともできるかもしれない(『悪魔と両性具有』)。(岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』岩波書店岩波新書〕/2023/p.166-167)

オクシモロン(oxymoron)は両立しない言葉を結び付けることによる意外さにはっとさせる効果を生む。オクシモロンをシェイクスピアが多用するのは、両立しないことの中にこそ真実があると考えているからだろう。「両性具有における反対の一致」の普遍性に通じる。

 キリスト教にはもともと「~でないもののように(ホース・メー)」という開かれた教訓がある。あまり聞きなれない言い回しかもしれないが、たとえば、男は男でないもののように、日本人は日本人でないもののように、考えたり行動したりできるということである。つまり、わたしたちが生きていくうえで求められているのは、自分とは異なったり反対だったりするような、さまざまな立場の他者の存在をいかに想像し尊重できるか、ということである。(岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』岩波書店岩波新書〕/2023/p.205)

キリスト教でないかのようなキリスト教の図像を通じて、想像力の可能性を詳らかにする好著である。

展覧会 飯田美穂・石井海音・黒宮菜菜三人展『The Three Graces』

展覧会『飯田美穂・石井海音・黒宮菜菜「The Three Graces」』を鑑賞しての備忘録
三越コンテンポラリーギャラリーにて、2024年4月3日~15日。

人々の「寝る」姿を描いた名画に取材した飯田美穂、大きな目を持つ少女をモティーフに映像を主題とする石井海音、蝋で固めた画面に描画する黒宮菜菜の3名の絵画を展観。

飯田美穂は人々の「寝る」姿を描いた名画を題材にした絵画のエッセンスを提示する。《Image, Louvre, Eugene Deveria》(608mm×725mm)は、ウジェーヌ・ドゥヴェリア(Eugène Devéria)の《Jeunes femmes assises》(1827)を単純化した作品。椅子に坐る女性が右肘で頭を支えて眠りに落ち、彼女の隣ではもう1人の女性がやはり椅子の背に凭れてまま眠っている。女性の顔は、2本の短い線による目と赤い点の口のみで、平安絵巻の引目鉤鼻よりいっそう簡素である。また、ドゥヴェリアの作品では鏡の蔭から若い紳士が女性の様子を窺っているが、飯田作品では男性は暗がりの中に表わされていない。他方で、絵画の額縁までも作品の中に描き出している。《Image, Henri Toulouse-Lautrec》(912mm×1166mm)の1点は、アンリ・ド・トゥールーズロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)の《Dans le lit》(1893)に基づく。ベッドで枕を並べて眠る2人の人物が布団から顔を出している。これと近しい主題・構図の作品が、2人の幼児が眠る、国立西洋美術館所蔵《眠る二人の子供》(1612-1613)に基づく《Image, Rubens》(457mm×532mm)である。両作品では寝具は眠る顔をトリミングするための装置となる。《Image, Louvre, Fragonard》(608mm×727mm)は、ベッドで女性が幼児のような天使に脱がされている場面を描いた、ジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard)の《La Chemise enlevée》(1770)を金色の額縁ごと写し取ったもの。フラゴナールが女性の臀部から脚を浮かび上がらせるべく女性と天使の顔を影の中に落とし込んだのに対し、作家は光溢れる中、女性が天使を持ち上げてあやすようである。女性が作者や鑑賞者の視線の客体から、天使を見詰める主体へと反転している。《Image, Harunobu Suzuki》(726mm×910mm)は、鈴木春信の浮世絵版画(1768-1770)を下敷きにした作品で、春信からジュリアン・オピー(Julian Opie)に近付いている。春信は家具調度の幾何学的な線により、男女が坐って口付けを交わす口元に視線を誘っていたが、作家は頬を寄せ合う形に変更している。同題・同サイズの《Image, Henri Toulouse-Lautrec》(912mm×1166mm)のもう1点は、ロートレックの《Au lit le baiser》(1892-1893)に取材し、ベッドで抱き合い口付けを交わす男女を描く。淡い色彩であっさりと描かれた上に、滲みや垂れるなどもあり、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の水彩画のような風情である。上記作品はいずれも油彩作品だが、《Untitled, mirror》(312mm×225mm)は紙の作品。喜多川歌麿の「ねがひの糸ぐち」シリーズの1点の一部に基づく。鏡とそこに映った女性の右足だけをトリミングしつつ、黄とピンクのトレーシングペーパーを重ねて貼ることでまぐわう男女を抽象的に表現している。

石井海音の絵画には、顎から頬にかけて緩やかな円弧を描く線に、下に凸の二次曲線の頂点がほとんど接するような縦長の大きなな目を持つ漫画キャラクターのような少女が登場する。《スクリーン》(325mm×440mm)には、粉雪の舞う中、紫のハイネックのセーターを着た「少女」の胸像が左に45度傾いて描かれている。下に大きな指と液晶ディスプレイの枠が覗くことから、スマートフォンあるいはタブレットのカメラで目の前の少女を映し出している場面と考えられる。少女に降りかかる粉雪は、画面の中のみならず、少女に向けられたスマートフォンあるいはタブレットにも舞い散る。雪が画面の内外あるいはイメージと現実とを繋ぐ。《瞳を泳ぐ》(530mm×455mm)には、葉のパターンのデザインされたやや淡い青紫のシャツを着た「少女」の両目に、海を背にした白いワンピースの少女の姿が映る(同題・同サイズで「少女」の顔を大きく表わした作品が隣に並ぶ)。青紫のシャツの「少女」と瞳の中の白いワンピースの少女とは同じ向きに髪が靡く。《スクリーン》同様、《瞳を泳ぐ》でも瞳の内外、イメージと現実とに同じ風が吹く。その不可視の風を可視化すべく、波飛沫と思しき銀色の粒が画面に散らされている。《外に出たい手》(1120mm×1940mm)の画面は左右に2:1に分割され、左側の画面には右手を軽く顎を支える「少女」の顔を、右側の画面に2階建ての建物の6つの窓からそれぞれ突き出された腕が描かれる。どちらにも大きな銀杏の葉が舞い、そのうち1枚が左右の画面の境界に跨がるとともに、「少女」の顔と建物の壁面に銀杏の樹と思しき斑の影が映ることで、2つの場面が同じ場所である可能性を示唆する。建物の窓から伸ばされる腕は、スマートフォンを操作するディスプレイ越しのコミュニケーションのメタファーであろう。映像を介さない現実の接触を求めているようだ。《外は寒いのので中に入れて下さい 1》(1455mm×1455mm)には、雪の舞う高原ないし山間部の集落にある1軒の民家の結露した窓から「少女」が外を眺める姿が描かれる。「少女」が手でガラスを拭い、曇りが消えた部分に紫の壁紙を背にした「少女」の姿が現われる。曇ったままの窓は鏡のように窓外の集落の景色を映し出す。すっかり葉を落とした街路樹の向こうに似たような木造の民家がいくつも姿を見せる。雪によって覆われ始めた道ではケンタウロスが「少女」に向かって右手を挙げている。「少女」は無表情でその心の裡は読み取れない。《外は寒いのので中に入れて下さい 2》(1455mm×1120mm)は、《外は寒いのので中に入れて下さい 1》に姿を現わしたケンタウロスの胸像。ケンタウロスの目には家の中から姿を見せた少女の姿が映っている。目の映像とともに、降りかかる雪が2つの世界を繋ぐ。屋内の「少女」と屋外の異形の存在との邂逅は、移民や難民の受け容れのメタファーであろう。戸惑っているようにも見える「少女」に対し、ケンタウロスの微笑みが事態の好転への兆しを示唆する。

黒宮菜菜は蝋を用いた画面で絵を生み出す。「Whaite scratch」シリーズは、蜜蝋では固めた画面を削ることでモティーフを表わしている。《Whaite scratch―袖を振る》(235mm×285mm)はベージュの画面を削って女性が舟(円弧)の上に立ち腕を羽搏くように上下に振る姿が下地の黒い絵具によって描き出される。《Whaite scratch―魂の舟》(235mm×285mm)は舟の上の馬と鳥の姿がベージュの画面に暗赤色で彫り出される。《空(から)の馬、空(から)の舟 #2》(740mm×920mm)の、葦や日陰鬘といった植物がその形が浮き立つように蝋で塗り込められたごつごつした画面には、赤みがかった色彩で舟の上に立つ馬と馬の首を撫でる(?)女性の姿がぼんやりと浮かび上がる。《船に乗る》(1325mm×1640mm)の、葦、薄、日陰鬘、定家葛、米、大麦、粟、黍、大豆、小豆を蝋で固めた凸凹の暗緑色の画面には、水辺に浮かぶ船に横たわる女性と、周囲の草叢の鳥たちの姿が白く表わされる。《空の馬、空の舟 #2》や《船に乗る》のモティーフは画面からある程度離れないと認識できない。実際の植物を画面に塗り込めるという制作の過程には儀式を想起させるのみならず、舟(船)・鳥・馬といった魂を運ぶモティーフと相俟って、作品と距離を取らせて近寄り難くする仕掛けは、作品に神聖さを吹き込んでいる。

展覧会 天野雛子個展『COLOR and STORY』

展覧会『天野雛子「COLOR and STORY」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2024年4月8日~13日。

人物、動物、植物をモティーフとした絵画16点で構成される、天野雛子の個展。

最初に目に入るのは、女性と彼女に耳打ちするもう1人の女性の上半身を描いた《ウワサ好き》(910mm×727mm)。耳打ちされる女性の髪は青く、緑がかった白色のスリップ(あるいはキャミソール)を身に付け、正面を向いている。影の表現か顔の右側(向かって左側)は黒く、なおかつ右側(向かって左側)の目からはマスカラが落ちたために(?)黒い涙を流している。耳打ちする女性は茶色い髪で、ピンクのキャミソールを身に付けている身体は相手に、顔は正面に向けられている。声が漏れないよう左手を耳元近くに寄せている。目の表現により描き分けた純粋さと狡猾さとを、寒色と暖色との対照によって強調している。
メイン・ヴィジュアルに採用されている《積もったね》(652mm×530mm)は、下側3分の2を雪が覆い、上の3分の1は青空を背に並ぶ2人の子供の顔が覗く。顔は朱とクリームとでそれぞれ塗りつぶされ、目だけがはっきりと表現されている。ほぼ正面を向けた顔の目だけがアイコンタクトをとるように相手に向けられている。

紫のボンネットを被り歯を見せて笑う女性の顔を画面一杯に描いた《Untitled》(652mm×530mm)の右側には、オランウータンの顔だけを捉えた《とびきりの笑顔》(455mm×380mm)が並ぶ。頭部の毛は燃え立つように逆立ち、レモン色の背景と相俟って、向日葵のイメージを呼び込む。オランウータンを笑顔に見せるのは下に凸の円弧として表わされた結んだ口が作る線である。頭髪と口の線は、《Untitled》の女性の被るボンネットと彼女の顔に沿った紐と相似する。《ウワサ好き》や《積もったね》では画面に2人の人物を配することで物語を表わしていたが、《Untitled》と《とびきりの笑顔》では別個を並列することで物語を呼び込もうとしているようだ。

《Eating》(1620mm×1330mm)には、しゃがんでリンゴ(?)を食べようとする、オランウータンだけが描かれる。オランウータンは黄とオレンジの毛で覆われていて、青や水色などで塗られた顔と、口元近くで「リンゴ」を手にする紫の爪とに鑑賞者の目は自然と引き寄せられる。激しいタッチと燃え立つような色の体に比して、寒色による顔や爪は冷静さや繊細さを感じさせる。

《Blooming Ⅰ》(910mm×1167mm)と《Blooming Ⅱ》(910mm×1167mm)とはいずれも赤い花が画面を埋め尽くす。《Blooming Ⅱ》では茶の枝や緑の茎、背景の草の緑やペールオレンジの光などにより円形などに単純化された赤い花が引き立てられるが、《Blooming Ⅰ》では赤やピンクの花がより高い密度で画面を覆い、赤やピンクが背景を占める割合も高いために、渾然一体としている。フォーヴィスム(Fauvisme)を思わせるのは、近くにオランウータンの絵画が並ぶせいではなく、花が咲く、その息吹を画面に表わそうとしているためである。
作家のフォーヴィズムが遺憾なく発揮されている作品に《藤の花》(910mm×727mm)がある。藤の花は光の粒と背景化した紫の色彩とに分離していて、タイトルを知らなければとても藤を描いたものだとは分からないだろう。だが、ほとんどインスタレーションと化した吉村芳生《無数の輝く生命に捧ぐ》の精密描写による凄みとは真っ向から対立する、得体の知れ無さが魅力である。
主に緑と紫の落ち着いた色彩でタッチは穏やかであるものの、地学で学ぶ地層の断面図のような《ベジタブル》(652mm×530mm)。何の野菜を描くのかは窺い得ないが、その某かの野菜の向こうに大地=地球(the earth)を見通そうとしていることだけは間違いない(その証左に、《土の中》(273mm×220mm)という作品も展示されている)。