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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 土井沙織個展『MOTHER'S HAND』

展覧会『土井沙織個展「MOTHER'S HAND」』を鑑賞しての備忘録
ARTDYNEにて、2024年11月23日~12月15日。

厚手の木枠に張った寒冷紗を石膏で塗り固めて作った支持体に、岩絵具、泥絵具、弁柄などの顔料で、人間味のある生きものを描く、土井沙織の個展。

展覧会タイトル「MOTHER'S HAND」は、メインヴィジュアルに採用された《うたかた》(1390mm×1830mm)のザラザラとした画面一杯に描かれた、包み込む厚みのある大きな手が由来だろう。44mmと厚みのある画面もまた脹よかな手のイメージを増幅させるのに一役買っている。朱やオレンジ、クリーム色などが差す黒い両手の上に描かれるのは、金色に輝く馬に乗る人の形をした存在である。作家が本展に寄せた言葉「どこにいても、誰かといても、何をしても、1人で死んでも、私たちみんな大きなものの手のひらの上。」からも、『西遊記』の「釈迦の掌」に通じるテーマが明白である。金箔を用いた騎馬像は、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)の《人生は戦いなり(黄金の騎士)(Das Leben ein Kampf(Der goldene Ritter))》(愛知県美術館所蔵)の影響もあるのではなかろうか。だが騎乗の存在は武器を携えず、背に跨がって鑑賞者の方へ顔を向けている。手が象徴するのは無窮の天であり、金箔の輝きとして表現された騎馬像は、刹那に過る光芒として生命の象徴である。その趣旨を明快にするため画題を「うたかた」として『方丈記』冒頭の表現を借用したのであろう。
《Me and me》(920mm×780mm)の山吹色の明るい画面に描かれるのは、右側の後光を放つ人物と、それと向かい合う左側のシルエットの人物である。前者は高い丘の上に胸の位置で両腕を交叉させ、後者は低い丘の上で両手を垂らし、それぞれ佇む。黒い絵具の上から塗り重ねられた白みがかった山吹色やレモン色が対照的に明度を上げて輝く。影があるからこそ光が存在すること、すなわち影と光とは一蓮托生であることが表わされる。

 すべての生きものはある意味で、形態から形態、主体から主体、実存から実存へとうつろい続けるような1つの同じ身体、同じ生、同じ自己である。この同じ生とは惑星を生気づける生であり、惑星もまた生まれ、既存のコール(身体=天体)――太陽――から逃れ、45億年前に物質的なメタモルフォーゼによって生み出された。わたしたちはみなその小片であり、閃光である。先行する数えきれぬ存在のなかで生がなしたこととは別の仕方で生きようとする、天体的物質でありエネルギーである。しかしながら、この共通の起源――より適切に言えば、わたしたちが地球の肉と太陽の光、つまり「わたし」と言う新しい仕方を再発明する肉と光であるということ――は、わたしたちにただ1つの同一性を強いるわけではない。反対に、より深くて親密な親縁性(わたしたちは地球と太陽であり、それらの身体、生である)のゆえにこそ、わたしたちは絶えず自分の本性と同一性とを否認するよう定められており、それらを新たなものへと手を加えるように強いられいてる。差異はけっして自然ではなく、運命と義務である。わたしたちは互いに異なったものになる義務を、自分をメタモルフォーゼする義務を負っているのである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.23)

《うたかた》の騎乗の存在は人間であるかどうか定かではない。頭から垂れるのは結んだ髪か、長い耳や角なのか。《Me and me》の人物もヴェールを被ったように抽象化されている。その曖昧さは、人間とその他の生きものとの境界を曖昧にする。実際、《幕間》(920mm×780mm)に登場するペアの片破れを意識する鶏や、《GO》(600mm×600mm)の外に放り出されて動揺する馬(?)、《なれないベッド》(300mm×400mm)の掌の上で不服そうな獣など、生きものは人間味溢れる表情で表わされるのだ。生きものは等価なのである。