可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大原舞個展『ENCOUNTERS』

展覧会『大原舞「ENCOUNTERS」』を鑑賞しての備忘録
s+artsにて、2024年5月10日~25日。

都会の片隅で目にする植物をモティーフとする絵画や立体作品を中心とした、大原舞の個展。

展示壁には、"ENCOUNTERS"などと題された、都市の日常で遭遇する(encounter)、世話をされなくなった鉢植え、あるいは自生して蔓延る植物をモティーフとする絵画が飾られている。
例えば、《ENCOUNTERS #7》(730mm×910mm×30mm)が描くのは、暗い緑色のタイルの上に蝶や植物を描いた白いタイルの台が設えられ、その上に鉢植えの植物が置かれている。鉢とそこから溢れ出し突き出す植物は赤で表現され、そこに姿を覗かせ、あるいは垂れかかっている淡くくすんだ緑の植物と相俟って、毒々しいまでの生命感が伝わる。鉢植えの背景は黒地の方眼で、さらに内側から外側に向かって黒地に植物のパターン、緑の葉と紫の花のパターン、金網フェンスのフレームにより三重に囲んでいる。鉢植えと装飾の植物に加えタイルや金網の幾何学模様が、自然と人工との区別を無効化するように渾然一体となっている。《BEAUTIFUL SCENE #2》(450mm×590mm35mm)には"DO NOT ENTER"との掲示された金網フェンスで覆われた空間を樹木が囲み、フェンスに蔦が這う様子をほぼモノクロームで額、その周囲のマットに当たる部分にも黒地に種々の草花を描き込み、フレームにもまた植物のパターンが表されている。《SOMETHING RED octagon》(495mm×495mm×20mm)は、花模様で埋め尽くした堆朱の盆のような八角形のフレームに、黒地に赤い植物を中心に、枝や葉脈、蔓などを表してある。《SOMETHING RED #1》(400mm×200mm×20mm)では、開いた二枚貝のように楕円を2つ並べた画面に赤い植物を描き込んだ上、フレームの上部に茎と花とが取り付けられている。
このように絵画作品は、様々なモティーフを描き込んだ画面に加え、マットやフレームにも描画され、さらにはフレームに植物の立体作品を取り付けられていることもある。
これら絵画作品とともに展示されている立体作品には、擬人化された多肉植物の"MOVING PLANT"シリーズや、身体をキャンヴァスに様々なモティーフが描き込まれた女性の"NATARIE drawing"シリーズがある。鉢植えの台で踊るような姿勢をとる多肉植物と、様々なポーズをとる女性NATARIEとに対し、作家は同じ眼差しを注いでいる。これら立体作品が植物を描いた絵画群と相俟って、都会の植物の旺盛な生命力が表現されるのである。

作家が街で遭遇する(encounter)旺盛な生命力である植物は、都市や建築の合理の世界から食み出す存在である。その存在を作家が取り上げたのは、泉鏡花が『高野聖』において描こうとしたことに通じるのではないか。『高野聖』では、東京から故郷若狭に帰省する、語り手である「私」が、汽車で居合わせた聖から、飛騨山中の「魔処」で妖女の誘惑に遭った話を聞かされる。言わば二重の遭遇(encounter)によって「私」は合理の世界が失った「魔処」へと導かれるのである。

 (略)この掌編の主人公「私」は「東京」に代表される価値の担い手。若狭へはあくまでも「帰」るのにすぎない。どこに帰ったかといえばたしかに若狭であろうが、何に帰ったかといえば、彼が帰るべきその何物かをいわば代理的に指し示すもんが聖の語る「魔処」なのだ。奇異に響くかもしれないが、物語中物語――そしておそらくは夢中夢――という説話論的仕掛けを通して、聖はつまり「私」のアルタ・エゴ(分身)なのであり、「私」のサイキー(心性)なのである。これは、いまや「東京」化しつつある中心が、その旅を介して、かつては自分自身にほからなかったものともう一度直面させられ、ありうべき一時の「療治」を得る物語である。「高野聖」は、「私」のサイキー(心性)がしなければならない象徴的地獄巡りの、「プシュコポンポス(魂の道者)」であるとも見える。
 東京から若狭へと伸びる線を考えてみる。これが「私」の旅程である。これに「高野山」から「永平寺」へと向かうスピリチュアルな撰文が交差する。象徴的には、島居からきた「私」のヴェクトルが上人という道者を得たことで、それまでの運動から右に右にと逸脱してく。その果てにあるのは、「魔処」とのみ記されるばかりでいささかも具体的な名を持たぬあやかしの異界。「冥府降下」の説話パターンの始まりである。東京に対する北陸、北陸に対する金沢、同じ金沢でも市街と周縁部……幾重にも重層化する〈中心〉と〈周縁〉の構図の中、帰るべき故郷は無限後退の運動さながらずんずんと飛騨山中の某所めざして後退していく。東京から放たれた合理の線が少しずつ右にズレていって、飛騨山中のどこかで、たとえば山口昌男氏のエッセーの題を借りていえば、「失われた世界」の非合理性に巻きこまれる。それが一種の〈逆〉イシニエイションの旅であることは、「私」のサイキー(心性)にほかならない高野聖が誘惑に屈しそうになりながらもついに生還してくるところからも分明である。
 こうして、かりに東京といい若狭という地名に偽装されながら、実は目的、効用性といった合理の力に整合されつつあった日本近代化の精神を、彼が合理に付くことで切り棄て句圧しさってきた「民衆的サイキー(心性)」(ジャクソン・コープ)にもう一度直面させようとす焼酎尾的な冥府巡りの旅が『高野聖』の旅であるとするなら、主人公の行為とそれをとりまく環境は一挙に象徴的な磁場を帯びざるをえない。合理がつまりは範疇化、細分化、二極化をめざすものである以上、それら範疇を「越え」る両義性の中に「魔処」は顕現するはず。実際、鏡花の筆はおそるべく両義的な世界を描き出していった。
 (略)
 明治30年代、「都」は中央集権イデオロギーの下に、これ以上なく、政治的な「中心」の強権を発動したわけである。田舎、女、子供、不具者、……獣、植物から果ては岩や木までが、収奪の対象としてのみ許容され、その間尺にあわぬ部分は抑圧されていく。そのことが『高野聖』にも反映されている、というよりこの刮目すべき寓意譚を通すことによって何を見るよりけざやかにその事情が浮かびあがってくる、というべきだ。安っぽいエコロジー的発想に還元するつもりは毫もないが、合理に収奪されない生の形で鏡花はこれらヴァルネラブルな力を、この「魔処」に凝集的に表現する。自然、女性、そして「こども(小児)」の世界。なによりもまず自然。中心、原房をめざしていく段階の旅人は、まだ魔界を貫く論理を知らぬ〈外〉の人である以上、自然は突兀峨々として剣呑な相を向ける道理。(高山宏『新編 黒に染める 本朝ピクチャレスク事始め』ありな書房/1997/p.156-161)

都市という合理の世界の「間尺にあわぬ部分」である"NATARIE"(女)や"PLANT"(植物)が、境界を食み出し、あるいは飛び出して行く。鑑賞者は『高野聖』の私=高野聖同様、「魔処」へと導かれるのだ。