展覧会『若松裕子展』を鑑賞しての備忘録
OギャラリーUP・Sにて、2024年9月9日~15日。
山ないし山のような形をモティーフとした絵画で構成される、若松裕子の個展。
「山」という言葉が題名に入るのは、所々に花が咲いた5つの峰を描いた《山々の宴》(530mm1454mm)である。藍で表わされた木々が稜線を構成する青い山々に、桃、薄紫、白、白みがかった群青など、多様な花々を連想させる色が霞のように配される。《僕らが向かうその先》(242mm×666mm)では、空にも雪景にも見える白いを背に青い5つの尖峰が右に傾斜して並ぶ。右手に向かって進む群像のようにも見える。画面上部には尖峰と同色の青い緩やかな円の端が覗いている。人間到る処青山有りの人と青山とを一体的に表現させた作品とも解される。《夜のダンス》(318mm×410mm)では、満月の出た夜空を背に3つの峰が、月明かりに輝くことを表わすのであろう、暗赤色で表わされる。画面下端の水辺から山、夜空へと、青や赤や黄の粒が舞う。粒は最小単位としての「原子」であり、その循環と解される。万物流転、色即是空の表現である。《流れる》(727mm×606mm)では青い水の流れ、二重の山、夜空、月とが藍の濃淡、線と点とで描き分けられ、全てが一体的に表されている。《重なり合うもの》(1167mm×910mm)では山の重なり方、月の位置などに違いがあるが、同じモティーフで描かれた作品である。《夜のダンス》が色即是空という主題を粒のモティーフにより原子論的にダイナミックに表現したのに対し、《流れる》や《重なり合うもの》では静的に描出している。アトムを粒のイメージに描き出す必要はない。なぜなら岩絵具自体が鉱物の粒子であり、アトムのメタファーを託すに相応しいと作家が考えたからではなかろうか。
わたしの故郷、山形県鶴岡市の南郊には金峰山という小さな山岳がある。標高は458メートルで、その背後に母狩山(754メートル)、湯野沢岳(964メートル)、摩耶山(1020メートル)とつづく山並の端を占める。なにしろ、たとえば庄内空港あたりから遠望するとこれらの連山は、標高の比がほぼそのまま眺めとして現れる。金峯山は、母狩山や湯野沢沢岳のせいぜい子分程度に見えるばかりで、山岳と呼ぶのさえためらわれるほどである。
この金峰山は古くは山岳修験の霊山で、往時は広範な勢力を誇ったそうだから、無名呼ばわりは言語道断である。しかし、正直申し上げて、なんの予備知識がない人がはじめてこの地域の山々に目をやって、金峰山に最初に目を引かれるとか、しみじみと感じ入るというわけにはいかないだろう。月山(1984メートル)や鳥海山(2237メートル)が見える地域ならなおさらである。
この金峰山は、わたしの実家付近から眺めると、母狩山と隣り合ってほぼ同じ高さに見える。左に母狩山、右に金峰山である。そんなことに、幼い頃はなんの感慨もなかった。むしろ、月山や鳥海山の大きな山容に心引かれていたのである。
金峰山の眺めにわたしが何やら感じ入るところがあったのは、10代も終わり頃だった。医学受験の模擬試験を受けるために上京しては帰郷するということを2、3度繰り返し、あるいは受験に失敗して予備校通いのために東京で1人暮らしをはじめた中の帰省の折である。
あのころは新幹線もなく、たいていは寝台列車を利用したものだった。下り寝台急行列車が上越線から羽越線に入ってしばらくすると朝をむかえる。乗客は起き出しては顔を洗い、それから通路に接した大きな窓越しに早暁の風景を眺めたものである。列車かが羽前水沢駅あたりを通過する頃、進行方向右手の、広々とした庄内平野の奥に、右から、湯野沢岳、母狩山、金峰山が長く連なって見えた。
はじめのうち、金峰山はちっぽけで母狩山の尾のようである。列車が進むにつれて三山の間隔は縮まってゆく。まず、湯野沢岳が母狩山の後ろに隠れ、見えるのが母狩山と金峰山だけになる。やがて母狩山は金峰山の後ろに入り、最後には、両山は入れ替わって、金峰山が右、母狩山は左に、標高の比が1対1.6の両山が、見かけ上、ほぼおなじ高さに並ぶのである。
鶴岡市内に生まれ育った者にとっては、ほかでもないその並びこそが「定位置」なのだということをこのときつくづくと感じた。故郷に戻ってきたという実感は、金峰山と母狩山のわたしにとっての「定位置」を目にして、しっかりとしたものになったのである。故郷からいったん離れることで、山岳の距離感や相互関係は、いつのまにかその土地に生まれ育った者の血肉になっているということを知る思いだった。(齋藤潮『名山へのまなざし』講談社〔講談社現代新書〕/2006/p.231-233)
山々をどのように見るのか。すなわち世界をどう捉えるのか。それは取り合わせの問題に帰着すると言っても過言ではない。例えば、俳句を援用すれば、以下の通りである。
古池の句は今まで「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」と解釈されてきた。だがそんな気の抜けた句ではない。それでは何のおもしろみもないばかりか、そもそもなぜ蕉風開眼の一句とされるのかがわからない。
では古池の句はどういう句なのか。「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の面影が広がった」という句である。蛙が水に飛びこむ音を芭蕉が聞いたのは現実の世界のできごと。それに対して古池は芭蕉の想像力が出現させた幻影つまり心の世界のできごとである。芭蕉は現実の音を聞いて古池という心の世界を開いた。
(略)
蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻影が浮ぶ。古池の句をそう解釈する理由はいくつかある。その1つは「古池や」の「や」である。「や」は「かな」「けり」とともに代表的な切字の1つである。切字は文字どおりそこにで句を切る。この切字「や」によってこの句は「古池や」でいったん切れる。とするとこの句は従来の解釈のように「古池に」蛙が飛びこんでと安易に解すわけにはいかないだろう。蛙はたしかに水に飛びこんだのだが、その水がただちに古池の水であるといはいえないからである。
(略)
ではなぜ芭蕉は「古池や」と置いたのか。その古池はどこにあったのか。その手がかりも『葛の松原』にある。まず「蛙飛びこむ水のおと」と詠んだ芭蕉は上に何と置くかしばらく考えた。そのとき其角が「山吹や」がいいのではと提案したのだが、芭蕉はそれを採用せず「古池や」と置いたと書いてある。
これを読めば「蛙飛びこむ水のおと」の上に何と置くか考えるうち芭蕉の心に古池が浮んだということになる。古池の句の古池とは現実のどこかにあったのではなく芭蕉の心に浮かんだ古池ということになるだろう。古池の句の「蛙飛びこむ水のおと」は現実の音だが、古池は心に浮んだ幻影なのだ。
これを俳句の構造からみると、古池の句は「蛙飛びこむ水のおと」という現実の音と「古池」という心に浮かんだ幻影、現実と心という次元の異なるものの取り合わせでできている。このように取り合わせとは次元の異なるものを1句の中に和やかに共存させる和の手法なのだ。(長谷川櫂『和の思想―日本人の想像力』岩波書店〔岩波現代文庫〕/2022/p.81-85)
《流れる》や《重なり合うもの》が描き出すのは、古池の句同様、次元の異なるもの共存させること、長谷川櫂の言う「取り合わせ」そのものである。また、宮沢賢治の地質学的なスケールの眼差しをも見出せよう。
賢治が「イギリス海岸」と名づけた、花巻市内を流れる北上川西岸の青白い凝灰質の泥岩が露出する川岸は、二百数十年前の第三紀プリオシン(鮮新世)の終わり頃には海の渚だったのでした。賢治はこの地質学的事実をよく知っており、「その頃今の北上の平原にあたる処は、細長い入海か鹹湖で、その水は割合浅く、何万年の永い間には処々水面から顔を出したり又引っ込んだり、火山灰や粘土が上に積ったり又それが削られたりしてゐたのです」、と「イギリス海岸」で書いています。いわば賢治は、北上河畔のイギリス海岸を通じて、おもいがけなく太古の海と出遭い、花巻にいながらにして海洋的な想像力を刺激されていたことになります。海は、まさに彼の生きる小宇宙の内部にも存在していたのです。「イギリス海岸」にはこうあります。
この百万年昔の海の渚に、今日は北上川が流れてゐます。昔、巨きな波をあげたり、じっと寂まったり、誰も誰も見てゐない所でいろいろに変ったその巨きな鹹水の継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。(「イギリス海岸」『全集6』335頁)
「鹹水」とは塩水のことです。つまり「巨きな鹹水」とは海のことであり、北上川は「海の継承者」であるというのが賢治の深い直観でした。さらにこのイギリス海岸の古い泥岩の地層のなかの炭化した木の根株のまわりから、「私」は生徒たちと一緒に、化石化した
「くるみの実」を40ばかり拾ったことが「イギリス海岸」の挿話でも触れられていますが、現実にも、賢治はここで第三紀の地層と思われる場所からクルミの実の化石を採集しているのです。第三紀プリオシン(鮮新世)に生きていたバタグルミの化石を日本で初めて発見し、学会で発表したのは賢治でした(現在では新たな地質学的知見が加わり、賢治が発見したのは第四紀更新世の頃のオオバタグルミだったと考えられています)。
くるみの楕円形の核果、そのゴツゴツとした複雑な襞模様のなかに、賢治は百数十万年という途方もない時間を透視しました。まだ列島に人類などまったく現われていない世界。そこにも海は打ち寄せ、浅瀬が顔を出し、草や木が生い茂り、クルミの木が果実を実らせ、そこに西の方の火山が赤黒い舌を吐いて火山礫が降り積もり、木々は押しつぶされ、土中に埋められて、ついにいま賢治によって百数十年前のクルミの実が再発見されたのです。このような、ヒトの種的記憶もはるかに越える、悲劇でも喜劇でもない、ありのままの長大な生命倫理のなかで、海の原理と山の原理、渚の原理と火山の原理は、いまこの
瞬間において触れ合っているのでした。
時を凝縮するクルミの化石は、「銀河鉄道の夜」の夢の天の川の河畔でも、こんなかたちで掘り出されています。
「行ってみよう。」二人は、まるで一度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった処の入口に、
〔プリオシン海岸〕といふ、瀬戸物のつるつるした標札が立って、向ふの渚には、ところどころ、細い鉄の欄干も植ゑられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。
「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議さうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの尖ったくるみの実のやうなものをひろひました。
「くるみの実だよ。そら、沢山ある。流れて来たんぢゃない。岩の中に入ってるんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」
「早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘ってるから。」
二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻のように燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさへたやうなすすきの穂ほがゆれたのです。(「銀河鉄道の夜」『全集7』、257-258頁)
賢治が夢想した「銀河鉄道」が、壮大な時間と空間の結節点であることは云うまでもありませんそこでは、異なった場所、時間、生命体、無生物ですら、おのれの「歴史的」「地理的」に限界づけられた存在を破って、すべてがめくるめく時空間において出遭い、相互浸透するユートピアを指向していました。この北上川でもあり、太平洋でもあり、さらには賢治の天空的想像力においては「天の川」でもある川の渚に打ち寄せる波。クルミの実をこぼす樹木。崖で揺れるすすきの穂。そのはざまで稲妻や銀や貝殻が静かに始原の騒音をたて、赤々ときらめいています。これは「海」と「山」の時を超えた触れ合い、ほとんど交合といってもいいよな聖なる光景です。賢治世界が、その幻想地理学が、どこにおいても海と山の同時的・即時的な接触と重なり合い、そのはるかな時間をおいた共存と相互変容の相において生きられていたことの証拠です。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019/p.52-55)
《流れる》や《重なり合うもの》が描き出すのは、「海と山の同時的・即時的な接触と重なり合い、そのはるかな時間をおいた共存と相互変容の相において生き」ることであった。