可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 山口真和個展『それから からだは』

展覧会『山口真和個展「それから からだは」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY KTO 新宿にて、2026年10月3日~24日。

手、足、胸部、頭部の欠片などバラバラの身体部位を模った陶彫を白い布の上に配したインスタレーション《群》と、その陶彫の拓を取った和紙の半立体作品《像》・《触》とで構成される、山口真和の個展。

《群》は、床に敷いた皺の寄る白いシーツの上に並べられた、身体の部位を模った複数の陶彫から成る。胸部、手、足、脚、腕、分割された頭部の陶彫は、わずかに茶色がかる暗灰色とクリーム色とを呈し、布の網目が浮く。写実的表現ではあるが、平均的な身体のに比し規模は小さい。足の指は足全体に対し短い。腰や太腿は見当たらない一方、手だけが8つある。皺の寄る白いシーツは波打つ水面で、垂直に立たされた胸部を除き身体部位が浮かぶが如くである。身体部位が渦を捲き、身体が起ち上がらんとしている場面と見れば、サンドロ・ボッティチェッリ[Sandro Botticelli]の《ヴィーナスの誕生[La Nascita di Venere]》に通じる。逆に、海の泡と消えると解すれば、ハンス・クリスチャン・アンデルセン[Hans Christian Andersen]の《人魚姫[Den lille Havfrue]》を連想することも不可能ではないだろう。
壁面に飾られた《像Ⅰ》は、《群》の頭部、胸部、腕、手の拓本である。クシャクシャにされた和紙にやや俯いて右手を伸す女性像が叩かれた墨で浮かび上がる。石碑や魚の拓本とは異なり、和紙に凹凸が付けられており、壁から立体的に浮かび上がる。黒いイメージと反立体と相俟って、影絵芝居の人形ワヤン・クリ[ꦮꦪꦁꦏꦸꦭꦶꦠ꧀]を彷彿とさせる。俯く視線の先には《群》があり、右手を差し伸べるようにも見える。
同じく壁面に掛けられる《像Ⅱ》は《群》の鼻と口元、耳、胸部、両手両腕、両足の、半立体的な拓本である。仰向けに45度倒れた女性は――《像Ⅰ》が上半身像とも捉えられるのに対し――腰、太腿の欠損が明らかに欠損している。

実は、本作の着想源の1つにティツィアーノ・ヴェチェッリオ[Tiziano Vecellio]の《悔悛するマグダラのマリア[Maddalena penitente]》があり、裸体を隠すために捲き着けた豊かな髪を抑える手の形が、《群》の8つの手のうちの1組で再現されている。波打つシーツは身体を取り巻く髪であり、悔悛による生まれ変わりないし再生[rebirth]と解し得る。そして、マグダラのマリアが娼婦であったとする――聖書に直接の根拠が無い――絵画の伝統を踏まえ、女性の腰の欠損は、女性の生殖[reproduction]からの解放を表わすと解し得る。アダム=男性の肋骨から作られたイヴ=女性という物語は、男性支配下の女性身体の呪縛を象徴する。アダムだけでなくイヴもまた土から生まれたことを陶土製の女性により表わし、なおかつ女性は生殖機能を欠落させることにより自らの身体を取り戻す。
それから、からだは、女性自身のものとなる。