可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小瀧雅道個展

展覧会『小瀧雅道展』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーなつかにて、2024年8月30日~9月14日。

下層に書のような文様を大きく表わした上に朱の絵具を塗り重ね、そこにより小さな書のような文様を散らした絵画「不立文字」シリーズを中心とした、小瀧雅道の個展。

《朱陽・EOS》は、ギリシャの暁の神イオスの像で、ウレタンフォームや麻布、和紙、石膏粘土などで成型した立体作品。像高は185cmで壁に掛けられており、正面から向き合うと、竹の葉のような形で、全体に朱色、「葉先」に当たる尖った下端部分が金箔で輝いている。曙光と朝焼けである。装飾的でありながら簡素であり、とりわけ顔は、牡羊座の星座記号"♈︎"のように目と鼻との筋が金で盛り上げられるのみ。その朴訥さが却って原初から変わらぬ神聖さを醸成する。絢爛かつ淫靡なグスタフ・クリムト(Gustav Klimt)とは対照的であるが、根源的な感覚を刺激しようとする点で通底しよう。
イオス(《朱陽・EOS》)が曙光で世界を覆うかのように、朱の画面の絵画「不立文字」シリーズが壁面に並ぶ。使い込んだ根来塗に比せられるような画面だ。下層に書のような文様を大きく表わした上に朱の絵具を塗り重ね、さらに小さな書のような文様を散らしてある。一見すると、料紙装飾の断簡ようである。尤も、悟りは文字≒言葉では伝えられないという「不立文字」を掲げている通り、書のような文様は文字となることを回避されている。幾何学紋様や植物文様とも異なり、連なりなく散る。たらし込みの技法により金箔が玉虫色に見える部分もある。同一壁面に並ぶ3点で比較すると、《不立文字 No.573》(401mm×500)がやや暗く、《不立文字 No.579》(730mm×910)がより赤味がかり、《不立文字 No.577》(515mm×730)がオレンジ寄りの色彩である。絵具自体の選択に加え、重ね方による明度差なども影響しているようだ。

 自分を自分の奴隷にすることによってはじめて、自分は自分の主人になることができる。それを主体的というのだ。この仕組み人間は一般に精神と身体の分割によって成し遂げる。むろん、精神が主人で身体は奴隷。思い通りの身体を養うことによって人ははじめてその人になるのである。比喩として述べているのではない。(略)
 理想も理念もこの仕組と無縁ではない。犬も猫も馬も、理想や理念を必要としない。ただ人間だけが必要とするのは、この自己という仕組が、何かに殉ずる、何かに献身することを絶えず要求するからである。まさに修身である。身を修めることは実を奴隷かすることなのだ。
 (略)
 田村隆一の詩でもっとも有名なフレーズは「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」である。詩集『言葉のない世界』の詩「帰途」の冒頭である。第一連を引く。
言葉なんかおぼえるんじやなかつた
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかつたか
(略)
 人間が人間であることはそれほど自明のことではない。少なくとも、人間は人間が考えているひど人間的な動物ではない。むしろ非人間的といっていいほどである。人間はまず、言葉によって自分を対象化し、他者となったその身体を奴隷化した。この流儀を拡張することによって自分ではない人間を奴隷化し、さらに人間ではない動物を奴隷化すなわち家畜化することに成功したのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.241-242)

田村隆一が「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」と嘆くのは、意味を分節してしまう言葉を用いて、それが通用することのない深層領域に開示されるものを表現しなければならないからである。

 井筒〔引用者補記:俊彦〕は『意識と本質』において、この手紙〔引用者註:ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)の手紙〕を契機として次のように述べている。リルケの語っていることは芭蕉宣長にも通じるとしているのである。
 コトバの意味分節の力の及ばぬ「意識のピラミッド」の深層領域に開示されるもののフウィーヤを、詩人はあらためて言語化しなければならない。言いかえれば、フウィーヤを非分節的に分節し出さなければならない。つまり、我々がさきに見た禅の「転語」、すなわち根源言語の生起の場合と構造的に類似した事態がここにも起る。しかも、使われるコトバは日常的言語と、表面的にはまったく同じコトバ。そこに禅者ないし詩人の言い知れぬ苦悩がある。リルケのような詩人に一種の名状し難い焦燥感があるのはそのためだ。深層体験を表層言語によって表現するというこの悩みは、表層言語を内的に変質させることによってしか解消されない。ここに異様な実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する。
 井筒が、どのような問題意識をもって、またどのような方法をもって、詩を論じ、禅を論じ、哲学を論じているか、この引用からだけでも、おおよそ分かってくる。(略)
 (略)井筒に触れたのは、井筒こそ現代の本覚思想、如来蔵思想の純粋な担い手であることを示したかったからである。
 (略)
 日本文学の伝統に貫通しているのは本覚思想である。さらに如来蔵思想である。(略)
 「見渡せたば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」でも「古池や蛙飛び込む水の音」でもいい。いわゆる日本の美学を支えてきたその思想、すなわち定家が書写していた摩訶止観や芭蕉が親しんでいた禅などは、仏教ではない、日本土着、中国土着、さらにはインド土着の民俗宗教にすぎないというのは、驚くべき大胆な指摘である。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.273-275)

定家が「見渡せたば花も紅葉もなかりけり」と詠じて不在の花や紅葉のイデアを観想させたように、作家は「不立文字」シリーズで却って言葉について思いを馳せさせる。その言葉とは、作家にとっては、イデアとしての言葉、深層体験を表現しうる光なのではなかろうか。