可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 田村憲一個展

展覧会『田村憲一展』を鑑賞しての備忘録
十一月画廊にて、2024年9月2日~14日。

生命の差異と繋がりとをテーマにした絵画で構成される、田村憲一の個展。

《換》(727mm×606mm)には水色の円ないし球の集合体の下にピンクの糸が触手のように伸びる譬えるならクラゲ的な形象が描かれる。《換 2》(727mm×606mm)では水色の円ないし球の集合体が下に、ピンクの触手が上に顛倒する。青い円ないし球や墨の円状の拡がりも見られる。
《意識と無意識》(530mm×435mm)にも、ピンクの糸を束ねたものとその下に緑や赤の円ないし球が集まった「クラゲ」に近い形象が、無数の墨で描かれた円ないし球の拡がりの中に表わされている。画面の端に黄色い花のようなものが描かれ、それは同題同サイズの作品に連なる。そちらの「クラゲ」は黄緑色の糸の束が下に、赤や緑の円ないし球が上に位置する。黄色い花は《虚実》(242mm×196mm)に墨や緑のドットの放散の中に青い点の集合とともに描かれている。
《遇》(727mm×606mm)では、墨の円ないし球の中に青が点じられたもののが散らばる中をピンクの糸束が浮遊している。
《回心を迫るアニマ》(1620mm×1620mm)には、墨の円ないし球の拡がりの中に、ピンクのドットとともに表わされたピンクの糸束に、水色の糸束が絡まっている場面が描かれる。画面左上には墨の円ないし球の中にピンクの花が姿を見せる。類似したピンクの花を中心とした作品《アニマの華》(242mm×196mm)から、それが「アニマの華」と知れる。
《魂象》(1167mm×910mm)には、墨を刷いた中に青いドットが散らばる中、ピンクや水色の花の姿が描かれる。花は魂=アニマ(が形作る形象)である。

《遙なる》(727mm×606mm)や《遙なる 2》(530mm×455mm)には渦が表わされるとともに、その中に目のような形が描き入れられているために人の姿が浮かび上がる。《遙なる 3》(727mm×727mm)では、画面の下部の渦の中心から上へ向かって、2つの目を持つ人の間を釣貫くように、線が伸びていく。《遙かなる入口》(196mm×242mm)には口唇でもあり陰唇でもある口の中から2つの目らしきものが覗く。

「雪象」シリーズは、白や墨の円ないし球が支配的な一種の雪景であるが、やはり生命の表現のようだ。松文様のような傘を持つ《雪象》(727mm×606mm)は陽物であり、口唇のような形を表わした《雪象 3》(318mm×410mm)は陰裂と考えられるからである。

全ては一つ
それでも離れて存在している
共にありたいが、別々でないといけない
共になると消滅する
共になろうとしないと喪失する
たいがいのことは時が解決してくれる
たいがいでないものは拡がっていく
拡がりは一つへ
(作家の本展ステートメント

作家は生命が連なりながらそれでも個物として存在することの妙を描き出そうしている。

 「内包」的な存在とは何でしょうか。くり返しになりますが、それは何より主客未分化な「連続体」にほかなりません。それはベルクソンにおいては「純粋持続」、西田においては「純粋経験」として描かれます。(略)
 ベルクソンは、「内包」的な存在者を次のように規定します。それは、「外延」的なもの、つまり相互外在的に表象される空間的なものに対置される、内部浸透する連続的な時間のあり方だというのです。外延的な存在者は、量的な計測が可能な現実的(actuel)なものです。それに対し、内包的な存在者とは質的で明確な表象化が不可能である潜在的(virtuel)なものです。ベルクソン初期においては、それはさしあたり心的事象という方向から捉えられますが、それ自身が、一般的な生命存在論の試みであったことはいうまでもありません。質的で潜在的な連続性の方が、表象的な現実を支える根源的な実在なのです。それが「純粋持続」です。
 西田において、実在をありのままに捉えようとする「純粋経験」は、こうしたベルクソンとほぼ同様なものを描きだしています。もちろん西田においては、主観客観問題の克服という論点が、ベルクソンより前面に出ています。しかし、ベルクソンの述べる「純粋持続」が、たんなる客観性に対する心的な主観性を主張するものではなく、むしろ客観性と主観性とが共に産出される前主観的な領野を示すものであるならば、それが西田の議論と重なることは確かでしょう。
 そのうえ、西田が「純粋経験」を論じるときの焦点は、やはりその分断不可能な「連続性」にあります。ベルクソンのメロディーの例と類比的に、西田は運動や音楽の演奏をとりあげます。そこで西田にベルクソンにも、有機的な連関性というテーマが重要になります。つまり、個別的な要素(「現実化」された表象)は、全体性を志向する有機的な統一性(「潜在的」な関係性)の方から、それが何であるかを規定されるのです。それは、ベルクソン的にいえば、「分割」すれば「その本性」を変えるものとして、分割不可能な「連続体」ということになります。
 さて、こうした「連続体」である「内包」を把握するための述語は、「潜在性」と「差異」です。基本的にはベルクソンに由来するこの言葉は、ドゥルーズの思考によって存在論的に洗練されました。しかし「潜在性」と「差異」というロジックは、内包的な存在論を構想する際にそもそも不可欠なものです。それは西田においても、同様であると考えられます。
 「内包」的な「連続体」を捉えるには、どうすればよいのでしょうか。表象的に対象化されたものではない有機的な関係性でそうした実在そのものを捉えることは、ベルクソンにおいては「潜在性」によってなされます。「連続的」で有機的な連関は、それ自身は表現されえません。その「連続性」はあくまでも「潜在的」なものです。そして、そのような実在が表象になっていく過程は、つまりは「内包」性が「外延」的な事象となるあり方は、こうした「潜在性」が「現実化」することと描かれます。流れの全体は、無限の連関性をもつために、対象としては知覚されえません。それが、外延的な対象として知覚されるためには、こうした潜在的なものの現実化が、つまりは無限なものの有限化が必要になります。
 こうした「潜在的」なものの「現実化」は、「潜在的」なものに固有の存在様態である「差異」を繰り広げること、つまりは「差異」(différence)の「分化」(ditérenciation)」として描かれます。それは、潜在的な無限として折りたたまれている差異を、空間的に押し拡げていくこととして捉えられるのです。そこで、「連続体」として潜在的に無限であるもの、有限化されるのです。ここでは、差異という述語がそのまま「微分」を意味することにも着目するべきです。「潜在的」な「差異」が「現実化」することは、無限の方向性を含み込む実在を、有限なものへと微分化することなのです。「微分」(と、そうした差異の働きの向こう側に想定される全体の「積分」(intégration)の作業)は、ベルクソンからドゥルーズへと続く性の存在論にとって中心的な意味をもっています。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.229-232)

潜在的な無限として折りたたまれている差異を、空間的に押し拡げていくこと」を花や人らしき形象によって訴えるのである。