可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 崔明永個展

展覧会『崔明永』を鑑賞しての備忘録
東京画廊BTAPにて、2024年8月24日~9月28日。

画面を単色の線や面で塗り込める「Conditional Planes(平面条件)」シリーズ12点(キャンヴァスに油絵具かアクリル。1点だけ紙にシルクスクリーン)で構成される、崔明永(최명영)の個展。

展示作品中最も早い1978年制作の《平面条件 78C》(315mm×605mm)は、灰白色の絵具をローラーで均等に伸ばした作品。尤も画面は平滑ではない。絵具の粘性が高いために生じた漣のようなローラーマークが表情となっている。また、画面の周囲に食み出した絵具もそのままになっている。
《平面条件 78C》の隣に並べられた《平面条件 794》(300mm×600mm)は、同じく灰白色の絵具を画面にローラーで伸ばしてある。但し、もともと正方形を隙間を空けて6行×12列で描いた上からローラーを掛けたらしく、所々に覗く下地が格子を形作る。
《平面条件 8016》(727mm×606mm)は、出展作品中唯一の版画(シルクスクリーン)作品。
赤味のある白い紙にクリーム色で刷られた正方形の格子は格子編みのような表情を見せる。
《平面条件 18-12B》(894mm×1303mm)は、グレージュのキャンヴァスに白い絵具で縦横の描線を配してある。所々に覗く下地が模様となる。それでも白い描線が図であることには変わりは無い。ところが《平面条件 19-123》(1620mm×1303mm)は藍色、《平面条件 19-122》(1620mm×1303mm)は墨色でそれぞれ縦横の線が描かれ、その下地との明暗差が大きいために、塗り残された下地が図として立ち上がる。図と地とが反転してしまう。
《平面条件 23-35》(1300mm×1300mm)、《平面条件 24-16》(1300mm×1300mm)、《平面条件 22-625》(1300mm×1300mm)は、いずれも幅のある筆でクリーム色の短い線を横に並べて描き、それを上から下へ何段も重ねている。《平面条件 23-25》(1170mm×910mm)も同様だが、鮮やかな朱の絵具が印象的である。
抽象絵画ではあるものの、温かみを感じさせる画面であり、その制作の新旧を感じさせない。普遍的な性格を備えた作品群である。繰り返される筆触は、時代とともに技術や制度が変化しても、根底では変わることの無い人、そして人々が蝟集する社会を表わしているとも解し得よう。

 今日のエレクトロニクス技術によって達成されたコミュニケーションの「同時性」や「遍在性」が前代未聞のものであるという点を強調する考え方もありえようが、われわれとしては、そうしたすべての祖型はすでに「1880年代」の西欧に出揃っているという視点に立ちたいと思う。(略)「イメージ」現象の総体を一括りにして「1880年代」以後の「蝟集空間」〔引用者註:無人の空間と相互排除の斥力により、逆接的に結合し合う、人々が蝟集し密集し、誰が誰やら区別がつかないのっぺりした顔をしてひしめき合っている群衆の空間〕の生成と見なし、その構造的=形式的特徴と見なされうるもの(略)を「等距離性」と「再現性」という2点に要約してみたい。
 「等距離性」とは、(略)遠さと近さの弁証法の消滅という事態を指している。「イメージ」は、遠くにあるものを近づける。現実の距離は無化され、遠いものも近いものもすべて同水準ののっぺりした平面の上に並ぶこととなるだろう。また、「再現性」とは、唯一性と一回性の消滅のことであり、複製技術による際限のないコピーの増殖を通じてオリジナル(独創的)なるオリジン(起源)という概念そのものが稀薄化してゆく事態を指している。ここにおいては、距離の差異ばかりか価値のヒエラルキーも崩壊し、遠いものと近いもの同様、高いものも低いものもまた同じ平面に並ぶこととなろう。「等距離性
」に対応するようなかたちで、「等価性」が出現すると言ってもよい。(略)
 「等距離性」と「再現性」とが交叉する地点を豊かなコノテーションで振動しているたった1つの美しい譬喩で指し示してみせたのが、ヴァルター・ベンヤミンであることは周知の通りだ。彼は、1936年の画期的な論考で、「複製技術の時代における芸術作品」の運命について語りつつ、それが宿命的に喪失してゆかざるをえないもの、すなわち、踏破しがたい絶対的な距離の彼方で1回かぎり起こる現象が身に帯びている輝かしい聖性とでもいったものに触れて、それに「アウラ」の名を与えているのだ。「アウラの消滅」の後、それに取って代わって出現するものが「等距離性」と「再現性」なのである。(略)
 (略)
 (略)主体がこの「アウラ」とどう関わるかというその関わり方にあるのであり、そこにおいては重要なのは「アウラを見ること」ではない。そもそも光学的な譬喩なのだから「見ること」であってもよさそうなものなのに、彼にとって本質的なのは、「アウラを呼吸すること」なのである。はるかに遠いものを、その還元不可能な遠さは遠さとして保持しつつ、しかしなおみずからの軀の皮膚となまなましく触れ合うところまで引き寄せようとすること。やや唐突な「呼吸」の譬喩によって辛うじて実現されうるこの逆接的な欲望は、「遠さ」を「近さ」として体験するという不可能な夢とも言い換えうるものだ。なるほど、「どんなに近距離にあっても近づくことのできない」ものが「アウラ」なのではあるが、にもかかわらず何とかそれを「近さ」として体験してみたいという理不尽な欲望が、ほとんど宗教的な崇敬へと転じるのだ。(略)
 「呼吸」とは、引き寄せる身振りのことなのだ。近づくことのできないものを引き寄せる。むろんこれはもよとり不可能なことであり、ここでは、それをあえて可能ならしめようとする熾烈なファンタスムが、「呼吸」という肉体的譬喩によって辛うじて近似的に表現されているに過ぎないのである。(松浦寿輝『平面論―1880年代西欧』岩波書店岩波現代文庫〕/2018/p.24-29)

とりわけ近作の《平面条件 22-625》・《平面条件 23-25》・《平面条件 23-35》・《平面条件 24-16》に描かれる、短い線の連続は、「等距離性」と「再現性」のメタファーであると同時に、「等距離性」と「再現性」によって消滅したアウラへの冀求としての繰り返される「呼吸」にも擬えられよう。