可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『陸路(スピルオーバー #1)』

展覧会『陸路(スピルオーバー #1)』を鑑賞しての備忘録
BUGにて、2024年5月8日~6月16日。

文化の受け渡しを徹底管理することの実現不可能性を、電波が想定外の範囲に届いてしまうスピルオーバー現象に重ね合わせ、むしろスピルオーバーの可能性に賭けようと企画された展覧会シリーズの第1回展。企画者は長谷川新。林修平の映像作品《D.L.P. (animals)》、新井健・谷川果菜絵によるアーティストユニット「MES」のラジオドラマを核としたインスタレーション《サルベージ・クラブ》、谷川果菜絵・小宮りさ麻吏奈によるプラットフォーム「FAQ?」のZINEで構成される。

文化の受け渡しの徹底管理とは、文化の受け渡しを有償契約として受益者を制限すること、フリーライダーを許さないこと、出捐者と非出捐者との間に分割線を引くことである。だが文化に公共性を認めるなら、スピルオーバーは一概に不合理とは言えないだろう。
「MES」の《サルベージ・クラブ》は、宮城県の養豚場が地震津波に襲われた後、人間の管理から解放された豚たちが倒れた餌タンク内で新たな生活を始めるというラジオドラマと、断片的な映像、餌タンクの実物などで構成される。物語の途中には人間の平等を謳う文言の朗読が挿入され、その度に壁面に設置された餌タンクから籾殻が噴出される。豚からすれば「噴飯」ものなのだろう。ジョージ・オーウェル(George Orwell)の『動物農場(Animal Farm)』に登場する「あらゆる動物は平等であるが、より平等な動物が存在する。(All animals are equal but some animals are more equal than others.)」というスローガンのように聞こえるからだ。
公共性のある文化について、その受益者を出捐者に限ることは、「より平等な動物」の存在を認めることに等しくはないだろうか。そして、「より平等」と「平等」との区別とは、平等な取り扱いを受ける者と受けない者と差別に他ならない。

 (略)ンベンベの「死滅政治」は次のような批評を示しつつ、種々の暴力を構築する論理形成において動物化がもたらす役割に光を与える。

 植民地が完全な無法のもとに支配されるのは、征服民と先住民を結ぶ一切の紐帯が人種主義によって否定されるからである。征服民にとって《野蛮の人生》は、単に《動物の生》の一種でしかなく、恐ろしい経験で、想像と理解を超える異質なものである。事実、アーレントによれば、野蛮人を他の人間と分かつ違いは肌の色というより、むしろ前者が自然の一員として振る舞い、自然を紛うかたなき主にいただくという恐れにある。

 もっとも、ンベンベの批評は完成しておらず、著書『ポスト植民地について』の議論と同様――そこで彼は臆面もなく「アフリカに関する言説はほぼ常に《動物》をめぐるメタ・テクストの枠組み(もしくはその縁)において展開される」と述べている――、動物たちへの暴力と植民地の経験ないし奴隷制の経験を結び付ける契機は見逃されている感がある。ここでも、筆者は奴隷制や植民地化が動物たちに行使される暴力と同形態であるとは言わない。が、形態と様態は違えど、手法と論理には重なりがあり、各々の歴史は絡み合っている。
 植民地事業と動物たちへの暴力を関連づけるとすれば、見かけ上おだやかな平和空間から激しい暴力の場を分かち切り出せる事実、そしてこの根本的に異なる2つの状態――戦争と平和――が境を接しながら、表面的な矛盾なく互いを支える様相を理解するのが分かりやすい方法となる。アパルトヘイト下の南アフリカにおける《タウンシップ(非白人居住区)》と《ホームランド(黒人自治区)》の機能を振り返る中で、ンベンベは移動(移住によるそれ)と財産所有の制限が集団分割と権利配分の道を開いたと述べる。

 ……ホームランドとタウンシップの機能は、白人区域での黒人による市場向け生産を厳しく規制し、指定区域外での黒人による土地所有を無効化し、白人の農場に黒人が住むことを違法化し(ただし白人が雇う使用人は除く)、都市への人口流入を統制し、後にはアフリカ人の市民権を否定した。

 移動権、市民権を介して調整されるこれらの管理は、人々を隔離し、それなしでは区別されなかった人間集団の分割を現実のものとした。白人の経済は、排除した者たちの従属労働に依存しながら隆盛を誇った。が、白人経済が平和裡に機能するには、黒人のタウンシップとホームランドを視界から除き去る必要があった。
 考えたいのはアパルトヘイト体制と現代における屠殺場の連続性で、後者は大々的な動物生命の抹殺、ならびに人種と低賃金労働が衝突する例外地帯が交わる場として、人間と人外を横断する一連の暴力を生み出す。(ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019/p,124-126)

「MES」の《サルベージ・クラブ》の舞台は養豚場であり、屠殺場ではない。だが体の向きも変えられない畜舎に押し込められているとしたら、どうだろう。。

 (略)人間と人外の動物を分かる溝を再確立すべきだとの訴えを読み取るのは誤りで、溝自体は必ずその消失を繰り返す。理由は、例外、そして主権がはらむ暴力の行使にある。禁じられた暴力を行使すべく例外を設ける権利、法的状況下の客観的矛盾でありながら法体系における論理的矛盾にはならないとベンヤミンが述べた作用は、人間と人外の動物のあいだに置かれたあらゆる溝が霧消する明確な地点となる。平和に見える人間社会が人外の動物生命に果てしない暴力を仕掛けることができるのは例外ゆえである。そして人間と人外の溝はただ例外によってのみ設けられ、人間は動物以上のものに値すると目される一方、動物は人間生命がさらされてはならないものにさらされてよいと目される。しかし、人間社会が工場式畜産場や実験施設において積極的に剥き出しの生の最果てを構成する限り、その例外領域に囚われた人外の動物の生は、人間の生が至りうる最果ての可能性を示す。そして人間の生は主権者の手により、人外の生が落とされたところと同じ圏域に追われかねない。(ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019/p,129-130)

動物(人外)を考えることは、人間を考えることである。人間と動物(人外)との間に引かれた線を消し去って考える――「より平等な動物が存在する」と考えない――ことを促すのが本展の狙いではなかろうか。