展覧会『TOPコレクション 見ることの重奏』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館にて、2024年7月18日~10月6日。
主に東京都写真美術館が所蔵する、アンナ・アトキンス(Anna Atkins/1799-1871)、ウジェーヌ・アジェ(Eugène Atget/1857-1927)、マン・レイ(Man Ray/1890-1976)、ケルテース・アンドル(Kertész Andor/1894-1985)、モーリス・タバール(Maurice Tabard/1897-1984)、ベレニス・アボット(Berenice Abbott/1898-1991)、マイナー・ホワイト(Minor White/1908-1976)、スコット・ハイド(Scott Hyde/1926-2021)、ウィリアム・クライン(William Klein/1926-2022)、奈良原一高(1931-2020)、杉浦邦恵(1942-)、山崎博(1946-2017)、寺田真由美(1958-)、チェン・ウェイ(陈维/1980-)の14名の作家の作品を通じて、見ること自体を問い直す企画。
冒頭に掲げられているのは、19世紀半ばに植物学者アンナ・アトキンスがシダ植物の葉を写したサイアノタイプ《ギンシダ(ジャマイカ)》[AA01]である。くすんだ青の中に白く浮かび上がる精緻な植物の造型に目を奪われる。科学標本に美術の眼差しを向けるという、見ることの重奏を象徴する作品だ。東京大学総合研究博物館が数理模型の展示を行ってきたこととパラレルである。
今では日本美術史の劈頭を飾って当然とされる縄文土器も、岡本太郎による美術としての「発見」(1952年「縄文土器論」)を俟たねばならなかった。大日本帝国では天皇陵からの出土品をもって美術史が語り始められていたためである(「帝室」博物館になって天産品が切り離されたことなども想起されよう)。
岡本太郎が縄文土器に向けた眼差しは、マン・レイが、廃れゆくパリの街並を観察・記録したウジェーヌ・アジェの仕事[EA01-21]に向けたものに等しい。マン・レイによるアジェの評価を汲み取り、ベレニス・アボットは変化するニューヨークの姿を捉えた[BA01-07]。
スコット・ハイドは景観と名画とを撮影した写真を異なる色で印刷する[SH01-02]。
マン・レイの《アングルのヴァイオリン》[MR11]は、ドミニク・アングル(Dominique Ingres)の絵画《ヴァルパンソンの浴女(La Baigneuse Valpinçon)》で坐って背中を見せる女性へのオマージュであり、モンパルナスのキキのヌードを撮影した写真にf字孔を描いてある。和歌における本歌取りに擬えられる。
奈良原一高の「デュシャン/大ガラス」シリーズ[NN01-04]は、瀧口修造からマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)についての論考のための写真を依頼されたのを契機として、フィラデルフィア美術館でデュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even)》を撮影した。
美術作品を撮影することにより、原作者と撮影者の眼差しが重ね合わされる。
チェン・ウェイはディスコで踊る人々の姿を写真に収める[CW04-05]が、スタジオで再現して撮影したものという。また、寺田真由美の主に室内の景観を捉えた写真[TM01-08]は、実は模型(と写真)を撮影した作品である。
"photography"とは光によって画く「光画」であり、真実を写す「写真」と捉えるのも1つの捉え方に過ぎない。もっとも、虚構を生み出す中にも、作家や現実の真の姿が現われているとも言え、まさに見ることは重奏としか言いようがない。