可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『YAMAZAWA Eiko』

展覧会『「YAMAZAWA Eiko」by The Third Gallery Aya』を鑑賞しての備忘録
CADAN有楽町〔Space M〕にて、2025年1月7日~26日。

写真家・山沢栄子(1899–1995)の「What I Am Doing」シリーズを展観。

《What I Am Doing No.01》(356mm×279mm)は、半透明の緑色の不等辺四角形の横と斜めの組み合わせ、《What I Am Doing No.82》(356mm×279mm)は紺の写真(?)を折り曲げてできた陰影、《What I Am Doing No.26》(356mm×279mm)は山吹色の画布(?)の組み合わせによる表情、とそれぞれ緑、青、山吹の単色による抽象画といった観を呈する。キーヴィジュアルに採用された《What I Am Doing No.24》(880mm×900mm)は、ジャン・アルプ(Jean Arp)の彫刻を連想させるモノクロームのイメージの上に黄、赤、青の絵具を垂らしたもので、ジョアン・ミロ(Joan Miró)の絵画などやはり抽象絵画の趣がある。《What I Am Doing No.09》(750mm×600mm)や《What I Am Doing No.07》(750mm×600mm)はくしゃくしゃに丸めた写真(?)を捉えたものらしく、暗い画面の中で山吹色の艶やかな明るさが目を惹く。曲げた紙10枚ほどを並べて構成したモノクロームの《What I Am Doing No.47》(1175mm×820mm)はパウル・クレー(Paul Klee)の絵画に通じるものがあり、コードを巻き付けた石材(?)に鍵を載せたモノクロームの《What I Am Doing No.66》(1175mm×820mm)は実験工房の作家たちが携わったAPNを彷彿とさせなくもない。

 映画と比較されることによって、長谷川〔引用者註:長谷川三郎「新しい写真と絵画」〕が抽象という言葉にこめた意味は明確になろう。写真装置の弱点を突き詰めれば、写真は視点が固定された上で外界の視界、対象を写真画面に一元的に写像する(平面化する)ことにおいて、遠近法を用いた古典絵画と同じ欠点をもっている。この構造に準拠する限り、写真装置も伝統的な写実絵画と同じく、現代の知覚世界を表現するには有効ではない。一方で映画が再現できる時間もあくまで線的に進行する時間に拘束されるほかない。ゆえに長谷川は、映画以降の(フォトプラスティックに代表される)新しい写真術は、その映画をも超えて、映画には不可能な多次元的に進行する複数の時間軸、空間をそこに包含するべきだというのである。
 「新しい写真と絵画」という論考はそもそも、長谷川が瑛九の作品に見出した可能性を論じた文章だった。(略)
 瑛九のフォトデッサンの上で、本来、異なる時間に属するモノたち(当然、同じ空間尺度も持ちえない)、そしてそのモノたちを照らした、それぞれの別の時に輝いていたはずの光が、1つの画面の中で一緒に呼吸し、ありえるはずのない1つのひかりとなってそこを充たしている。どこにも定位できない時間と空間。にもかかわらず、異なる次元にあるモノたちは、このありえるはずもない(が驚くべき明晰な)1つの光のもとで、(ありえるはずのない)1つの場所があるという確実性をまさに「いま、ここ」として顕現していた。(岡﨑乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018/p.95-99)

《What I Am Doing No.24》、《What I Am Doing No.07》、《What I Am Doing No.09》などで写真を写真に取り込むことは、「異なる次元にあるモノたちは、このありえるはずもない(が驚くべき明晰な)1つの光のもとで、(ありえるはずのない)1つの場所があるという確実性をまさに『いま、ここ』として顕現」することになる。

初めは偶然遭遇した効果であっても、それの由ってくる原因を知って、それを生かすことは既に偶然をたのむことではなく、必然に乗ずることとなる。(恩地孝四郎「版画というもの」)
即興的偶発性を確定的な技法から必然的に産出するという言い方は矛盾に聞こえるが、恩地の言葉は異なる複数の木版=版木から、元の木版には存在しない画面を生成させるという木版の技術の特性そのものに基づいていた。(岡﨑乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018/p.101)

《What I Am Doing No.07》や《What I Am Doing No.09》で、異なる時空で撮影された写真をくしゃくしゃに丸めることで生まれるイメージは偶然であるが、それを意識的に取り込むことで「どこにも定位できない時間と空間」を「必然的に産出」している。それが「What I Am Doing」シリーズの1つの柱であることは疑いない。