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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中村昇個展『染谷有香 赤いアルバム』

展覧会『中村昇写真展「染谷有香 赤いアルバム」』を鑑賞しての備忘録
Rollにて、2026年4月9日~5月3日。

グラマラスな俳優・染谷有香を被写体として15年に渡って撮影された写真45点で構成される、中村昇の個展。

展示室の入口正面の壁面には他よりも大きいサイズの写真4点が掛かる。額装されておらず、上下左右の側面が赤い。白い衣装を身につけ横たわる作品と白い壁の前で黒い衣装を身に着けて立つ作品の縦構図の対、磯で黒いワンピース姿で風に吹かれる作品と、森で全裸で左右の手で木を摑み前屈みになる作品の横構図の対である。左右の壁面に並ぶ作品も基本的に対になっている。対照させ、または物語を想起させる仕掛けだ。入口脇の壁面には6点組の作品が掛かる。

本展の冒頭に掲げられるのは、数段の階段を下りた先に立つ姿である。何も身に付けず、脚は開かれている。廊下の角を背に鑑賞者に対して45度右に向かう。強い眼差しの先に何があるのかは鑑賞者には窺えない。海の彼方かもしれないし、密林の奥かもしれない。

 1人の女性が階段を下りている。右足が下の段を踏み、左足はまだ上の段に触れているが、既に次の動きを開始している。女性は全裸で、肌は青白く、頭の毛と恥毛はブロンドだ。毛髪は光に当たって輝いている。全裸で青白くブロンド――ぼんやりと描かれている階段と壁の灰緑色の背景の前で、その女性は浮遊するような軽やかさで鑑賞者に向かってくる。それと同時に、彼女の長い両足と丸くたっぷりした腰、しっかりした乳房には、官能的な重みも備わっている。(ベルンハルト・シュリンク〔松永美穂〕『階段を下りる女』新潮社〔新潮クレストブックス〕/2017/p.5-6)

ベルンハルト・シュリンク[Bernhard Schlink]の小説『階段を下りる女[Die Frau auf der Treppe]』の冒頭に登場する絵画は、ゲルハルト・リヒター[Gerhard Richter]の絵画《階段を下りる裸婦[Ema - Akt auf einer Treppe]》に霊感を得ている。リヒターの絵画は、スタジオの階段を下る妻エマを撮影した写真を元にしており、エマが「鑑賞者に向かってくる」。
それに対し、染谷有香は鑑賞者に向かわせる。波板の壁の前に紺のスカートを穿いた彼女が腰を降ろし、脚を拡げる。彼女が浴室に入る姿と組み合わされる。開口部へと挿入を促す。
畳敷きの部屋で鏡台に向かって脚を開く。斜めに捉えられた鏡面には、顔から胸、そして下腹部の翳りまでが映り込む。傾きは奥へと回転しながら進む運動を引き起こす。
鏡に黒いヴェールを被る顔を寄せる。鏡に映った左目が鑑賞者を見詰める。写真、鏡、そして不可視の眼。入れ籠である。
青を背景に、上を向いた横顔だけを画面下半分に捉えた作品では、髪はうねり、眼は鑑賞者に向けられる。踊るサロメであり、同時に首を斬られたヨハネでもある。
和室の畳に脚を開き横たわる姿を窓外の手摺越しに捉えた作品は、90度右に回転させて展示されている。窃視的な構造は、マルセル・デュシャン[Marcel Duchamp]の《遺作[Étant donnés]》に通じる。
ホテルの一室で窓ガラスの前で両腕を持ち上げて立つ姿を横から撮った作品では、身体のラインがシルエットとなって鮮明に浮かび上がる。サッシの作る十字が照準器のようだ。撃ち抜かれたように、横たわり脚を上げた姿の作品と対である。
海辺のホテルの部屋で海を見渡せる窓の前に立つ姿を斜めに切り取った作品では、突き出された乳房に、波と海岸とが呼応するような形をなす。海を見晴らす窓の右側の壁にシルエットが映るだけの作品と対になることで画面に動きをもたらす。
ホテルの通路に飾られた海の絵画の前に佇む姿を捉えた作品は、赤いカーテンの明け放れた場所で花柄のワンピースを脱ぐ姿を捉えた作品と組み合わされる。浅瀬で開いた貝から現われたヴィーナスを描くサンドロ・ボッティチェッリ[Sandro Botticelli]の《ヴィーナスの誕生[La Nascita di Venere]》への連想を誘う。
白い絨毯の上に横たわり、白いハイヒールを履き白いタイツを身に着けた両脚を抱える姿は、スキアポデスを髣髴とさせる、不自然な姿勢である。ハンス・ベルメール[Hans Bellmer]の球体関節人形に通じるものがある。
熱帯性の植物に囲まれる中、青い布を敷き横たわる姿は、ラファエル・コラン[Raphaël Collin]の《フロレアル[floreal]》だ。
海岸の岩場で黒いワンピースの裾をはだけ下腹部が露出する。風が強いためか髪で顔が隠れる。顔が身体に置き換わるルネ・マグリット[René Magritte]の絵画《凌辱[Le viol]》を連想させる。

植物図譜や漫画はもとより、デュシャンの《泉[Fontaine]》よろしく大量生産の日用品であっても美術品たり得る。雑誌のグラヴィア頁を飾る写真も美術品であろう。像主の存在・魅力が作品において表現行為を凌駕するとき、美術としての立場が揺らぐだけではないか。