展覧会『桑原理早展「姿は彼方から」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーなつかにて、2025年7月22日~8月2日。
女性の身体を墨で描いた薄手の和紙(薄美濃紙・典具帖紙)を和紙壁紙に複数貼り付け、また念紙によるイメージの転写を用いることで、回転や落下といった運動を表現するよう構成された作品を中心とする、桑原理早の個展。
《漣》(910mm×727mm)は、頭を下げて(顎を引いて)左腕を挙げて脚を曲げた女性を右上に、その胸に腰が重なるように左に30度ほど傾けてほぼ同じ姿勢の女性を配し、その女性の顔の前に足先が来るように、蹲る女性を画面の下部に表わした作品。女性像は薄美濃紙に描いたものを貼り付けてあり、同じポーズの女性は念紙により転写されているらしい。型紙を用いた転写でリズムを生じさせた光琳の《燕子花図》に通じるものがある。本作は転写とともに下段の身体を上段の身体に対し180度反転させることでよりダイナミックな回転運動を画面に生じさせている。また、上段の女性の髪が上方に流れるのに対し、中断・下段の女性の髪が下に垂らされるように、髪の描き分けにより画面に重力を生じさせ、落下運動が表現される。もっとも、エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)らの連続写真や、それらに影響を受けたマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)《階段を降りる裸体 No.2(Nu descendant un escalier n°2)》とは異なり、運動を分析しようとするものではない。身体による構成はむしろ精神の表現を企図したものであろう。女性の眼が閉じられているのは、内面に思いを馳せるよう促すためであろうし、また画題「漣」とは波であり振動の伝播、すなわち感覚的反応(vibes)と考えられるからである。
《眠りの馳せる》(970mm×1455mm)は、横たわる着衣の女性を右側に、駆け出す裸の女性を右側に配した作品である。右側の着衣の女性は左腕を脇に置き、右手を胸元に置き、脚を投げ出して仰向けに横たわる。ほぼ横方向から捉えられている。背景に青い岩が配される。それに対し左側の裸の女性は右腕を大きく後ろに振り、右脚を前に出して駆ける。左上からの視点で描かれ、垂直方向の下半身と水平方向の上半身とが直角に近い形で、顔を下向きしている。紙を用いて平行移動したほぼ同一イメージを重ね、後ろ(上方)に流れる髪とともに、落下のイメージを生み出している。背景には黄緑の芝が配される。「岩」を背に眼を開き横たわる女性の静的な印象に対し、開けた草地を背景に走る女性の動的な印象が対照的である。おそらくはルイス・キャロル(Lewis Carroll)の『不思議の国のアリス(Alice's Adventures in Wonderland)』を下敷きにしているであろう。白ウサギを追ってウサギ穴に落ちるアリスが姉の膝の上で夢を見ていたのと同様に、女性はいつの間にか眠りに落ちるのである。
《深淵をのぞく》(1623mm×1940mm)は、前転する女性や落下する女性など、7つの女性像を組み合わせた作品。画面右側中段には、画面右端から画面中央に向かって、脚を上に顛倒した女性、脚を曲げて俯せになる女性、前転する裸の女性が配される。画面左側には、画面上端から画面下端に向かって、仰向けの裸の女性、顔に布を被った仰向けの女性、布を被った俯せの女性、脚を開いた女性の下半身が配される。とりわけ左側の女性像の弧状の配置には、喧嘩する猫の群れを円環的に描いた藤田嗣治《争闘(猫)》を連想させるものがある。もっとも、身体を折り曲げ、脚を開き、顛倒するなどの動的な姿態にも拘わらず、本作品からは静謐な印象を受ける。それは、女性たちがいずれも眼を閉じているからである。顛倒し、落下する女性たちは自らの心の奥底へと潜り込んでいるのである。
表題作《姿は彼方から》(1455mm×3360mm)は、8つの女性像を組み合わせた作品である。画面右側の上端からは女性の脚がのぞき、その下には腕を後ろに投げ出して丸くなる女性が描かれる。いずれも裸体である。画面中央には両腕を上に上げて脚を折り曲げた女性、丸くなる女性、右腕を後ろに反らせた女性が上から下に向かって配される。いずれも着衣像である。画面左側には右脚を前に右腕を後ろに曲げた女性に加え、画面左端からは右脚を跳ね上げた女性の下半身、画面下端からは女性の両脚が、それぞれ覗いている。また、8つの女性像のうち全身が描かれているのは3つだけで、他は画面から見切れていることが、和紙壁紙の清冽な白さと相俟って、空間の無限の拡がりを感じさせる。画面右側、画面中央、画面左側と順に女性像の配置が上から下へと違えられていることで落下のイメージが生じ、他の作品に比べて余白が広くとられていることで浮遊感が強調される。顔が描かれている女性の眼はいずれも閉ざされていることから、その姿態の構成による運動は静寂に包まれる。思念には限りがなく世界はどこまでも拡がり続けるのである。