展覧会『藤森詔子「祈りのかたまり―出雲神話から頂く生きる力」』を鑑賞しての備忘録
emmy art +にて、2024年11月9日~30日。
出雲神話に取材した絵画で構成される、藤森詔子の個展。《大国主の国譲の神話―島根県出雲市稲佐の浜―》、《恋山の玉日女命伝説―島根県仁多郡奥出雲町鬼の舌震―》、《素戔嗚の八岐大蛇退治伝説―島根県雲南市斐伊川―》、《時生へ繋ぐバトン―島根県松江市加賀の潜戸―》の4点については作家による調査に基づいた詳細な解説が掲示されるとともに、採取した資料(砂や落ち葉など)も併せて展示されている。
《大国主の国譲の神話―島根県出雲市稲佐の浜―》(910mm×910mm)は、葦原中国を治めるためにアマテラスオオミカミ(天照大神)によってオオクニヌシ(大国主神)のもとに派遣されたタケミカヅチノカミ(建御雷神)が、稲佐の浜ので大国主の子タケミナカタ(建御名方神)との力比べに勝利した場面を描いた作品。画面上端中央の日輪の中にアマテラスオオミカミを衣のみで表わし、画面左側にはオオクニヌシが剣を浜に突き立てて坐り、中景の海上では左腕が氷柱と化したタケミカヅチノカミによりタケミナカタが投げ飛ばされている。アマテラスオオミカミの発する光が画面全体に放射状に拡がり、あるいは七色の波となって前景(画面下端)の浜に打ち寄せる。光の放散(タケミカヅチノカミの左腕=氷柱=剣も組み込まれている)とオオクニヌシの姿が三角形の相似として安定感を備えた構図に、タケミカヅチノカミとタケミナカタの格闘が劇的に浮かび上がる。宙空でひっくり返るタケミナカタのイメージには、ジェイコブ・ピーター・ゴウィ(Jacob Peter Gowy)の《イカロスの墜落(The Fall of Icarus)》などの影響もあるだろうか。実在する浜辺の弁天島が神話の世界を現実へと引き寄せ、絵具に混ぜて用いられた稲佐の浜の砂粒が画面に相対する鑑賞者を神話の世界へと接続する。
《恋山の玉日女命伝説―島根県仁多郡奥出雲町鬼の舌震―》は、出雲国風土記に収載されている、タマヒメノミコト(玉日女命)が自らに恋い慕ったサメ(和邇)が遡上するのを防ぐために川を石で塞いだ物語を表わした作品。桃色の衣装のタマヒメノミコトが顔を背け、押しのけるように腕を伸ばす姿を前面(画面下部)に配し、中景には巨石が転がる川面を、遠景にはシュモクザメの跳ね回る姿を紅葉する恋山(したいやま)の木々や山並を背景に表わす。画面手前にタマヒメノミコトを配する構成は、流れる羽衣の表現も相俟って、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)の《エウロペの略奪(Ratto di Europa)》を想起させる。中景の巨石は、斐伊川支流の黒雲母花崗岩で、画面左手の苔生した烏帽子岩や画面中景の頭蓋骨のような人面岩は現地取材に基づく。「したふ」には「紅葉する」の意味もあったと言い、現地で採取した落ち葉を絵具に混ぜ込むことで色付いた木々に立体感を与えている。
《素戔嗚の八岐大蛇退治伝説―島根県雲南市斐伊川―》(910mm×910mm)は、スサノヲ(素戔嗚)が生贄とされかかったクシナダヒメ(櫛名田比売)を救い、ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治する場面を表わす。スサノオは、エドワードバーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)が《運命の岩(The Rock of Doom)》などで描き出すペルセウスのような端麗な容姿で、画面左上で躍動する姿は浮世絵などに描かれてきた五条橋の牛若丸を彷彿とさせる。対するヤマタノオロチは画面右下に大口を開けてスサノオを呑み込まんばかりで、他の頭もスサノオの襲いかかろうとする。ヤマタノオロチはいくつもの支流を持つ斐伊川の氾濫する姿と同時に、たたら製鉄の象徴として表現されている。櫛となるクシナダヒメはスサノヲの背に縋っている。製鉄業に対して農業が戦いを挑む場面とも評し得る。
《時生へ繋ぐバトン―島根県松江市加賀の潜戸―》(1940mm×3880mm)は、キサガイヒメ(支佐加比売命)がサタノオオカミ(佐太大神)を生む際に暗かった窟に金の弓矢を放って明るくしたという新潜戸にまつわる生の物語と、旧潜戸にまつわる賽の河原という死の伝承とを表わした作品。右手の海食洞門は女陰にも通じる。それが出産の神話の起源らしい。洞内には光が射し込み、巨大な折り紙のだまし船が妊婦を乗せて到着する。周囲には積まれた石が並び、積んだ石を崩す鬼の姿や、子供を救済する地蔵菩薩の姿もある。シャボン玉が象徴する魂が生死の世界を往還する。瓶に入れた手紙が海へと流される。その手紙を書く人物が洞窟の中にいる。潜戸の外、対岸には原子力発電所が見える。金の弓矢の神話との関連から、天界の火を人類に与えたプロメテウスが想起されよう。文明やテクノロジーの発達した現代の東京(Tokio)へと受け継がれるべき生の神話と死の伝承とを乗せた船=器=人(vessel)として絵画が構想されているのである。