展覧会『大河紀個展「リドロー・アウトライン」』を鑑賞しての備忘録
銀座 蔦屋書店 アートウォールにて、2026年1月31日~2月20日。
平面や壁面を思わせる領域に、シルエットの馬、花の亀甲模様、松などのパターン化された図像、さらには自在な描線を組み合わせ、境界を自在に往き来するイメージを起ち上げる絵画、及び愛嬌ある動物の陶彫で構成される、大河紀の個展。
《Set,》(1455mm×1120mm)は、空色を背景に松の木、花の亀甲文様を配した上に、ピンクの馬のくねる首や肢を画面一杯に描き、馬の黄のシルエットを散らした作品。画面上段に幾何学図形で単純化された馬の首が∩状に表わされる。頭部や鼻は円、目はオレンジの円の中に空色の円、耳は弧と直線といった具合。下段にはS字やU字に曲がる肢の先に円の蹄が付く。その周囲には下書きのような肢の輪郭の黄や青の描線がそのまま残され、動的な馬のイメージの可変性ないし不定性を強調する。さらに黄色いシルエットで表現された馬の姿が十数頭、右上に駆け上がるように描かれるとともに、90度回転させた松の木、ピンクの地に赤の花の亀甲文様、矩形などが相互に前後関係を錯綜させるように配される。天地の空間認識や先後のリニアな時間認識を錯乱させる。それは浮き=浮き世である「永遠の今」を表現するためではなかろうか。
そこ〔引用者註:九鬼周造「文学の形而上学」〕での九鬼の主張は、なんといっても芸術の時間を「現在」という時間性に位置づけることであり、とりわけ文芸においてみいだされる押韻や音の戯れを、徹底して永遠の今に関連させることにある。九鬼は以下のようにのべている。
文学の時間性について今までの考察で明らかになったことは、第一に文学は芸術の一種である限り文学の時間性は一般的にいって現在的であること、第二に時間芸術としてその時間制は質的であること、第三に言語芸術として時間が重層性を有っていることであった。文学の時間的本質を一言でいうならば、重層性を有った質的な現在である。(『時間論』、142頁)
その上で九鬼は、文学のジャンルにおいて、過去に重きがおかれるものとしての小説、未来に重きがおかれるものとしての戯曲に言及しつつ、まさに現在に重きがおかれる文学形式として、つまりは文学の純粋な存在そのものとして、詩をとりあげている。
これは過去への繰り延べが中心である小説や、未来への意志的な事態にかかわる戯曲に対し、詩が直観的で感動的な現在を言説化したものであるというだけではない。その場合は、詩はたんなる知覚的な現在をひき写しただけのものとなってしまう。九鬼はそれよりもむしろ、詩そのものの形式性に依拠しつつ、詩と「永遠の今」との関連を強調するのである。そこで詩の押韻性や音の戯れなども含む、時間の重層性というテーマがきわめて重要なものになってくる。
詩の時間的性格は現在的であるといって差支えないが、なおまた詩の現在はいわゆる「永遠の今」であると見ることもできる。永遠の深みを有った現在が詩の形式的規定の上にあらわれている。詩のリズムの反復というjことが現在が永遠に繰り返すことである。(同右、160-161頁)
詩とは、それだけをとれば言表され現在化された文字および音声の集積からなるものである。ただし九鬼はここで、詩の形式がはらむ押韻や繰り返しそのものが、現在という非連続の連続の無限を表現し、その深みにおいて永劫回帰的なものを響かせることこそに着目するのである。そこで九鬼は、三好達治、萩原朔太郎、長歌を継いだ反歌などを分析しつつ、つぎのようにのべている。
現在が深みを有つように繰り返すのです。多少長い詩型であっても、すべてが現在の一点に集中するように、技術上リズムとか押韻とか畳句とかまたは反歌というようなものを用いてあくまでも繰り返すのである……詩のそういう外形上の技術は詩を同じ現在の場所に止まらせて足踏みをさせているようなものである。詩を永遠の現在の無限な一瞬間に集注させようとするのである。(同右、164頁)
九鬼の詩の分析、あるいは押韻論の解釈をここで仔細に検討することはできないが、詩がその外形上の形式性において、枕詞や懸詞、あるいは押韻という音のレヴェルでの反復も含む繰り返しを軸とすることにより、「永遠の今」という等価的な永劫回帰の時間の重層性を表現させうることを、九鬼はきわめて高く評価するのである。それは反復としての現在という深みをひきたてるというのである。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.158-160)
天翔る馬は数多描ける(=×、redraw)馬(ウマ)である。「馬並めて」手繰るのは、待つ(=松)未来でもなく、過去(=括弧)でもなく、絵画という馬柵(=馬set)に囲われた今(イマ)である。尻を見せる馬の陶彫《horse》(200mm×95mm×110mm)が壁に突っ込み、あるいは倒立した熊の陶彫《teddy bear》(30mm×80mm×100mm)が地に潜り込み、鳥の陶彫《bird》(60mm×60mm×130mm)が虹を超えていこうとするのは、永劫回帰としての浮き=憂き世を逃れんとする、トリックスターたちであり、彼らは絵画の歌に対する反歌である。