可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

舞台 鳥公園『終わりにする、一人と一人が丘』

舞台『鳥公園♯15「終わりにする、一人と一人が丘」』を鑑賞しての
備忘録
東京芸術劇場 シアターイーストにて、2019年11月21日~24日。
作・演出は、西尾佳織。
出演は、石川修平、菊沢将憲、鳥島明、花井瑠奈、布施安寿香、和田華子。

フードコートで2人の女性が食事をしていると、一方の女性の不倫相手と彼の家族がたまたま居合わせていることが分かる。この場を離れるべきだと主張する友人に対し、不倫関係にある女性は気に留めず、うどんをすする。耳を貸さない女性になぜ「他人事」でいられるのかと苛立つ友人に、気分を害するだろうが実際に「他人事」なのはそちら
だろうと切り返す。

冒頭から、友人関係から生じる分かってもらえるはずという確信が、かえって相互に分かってもらえないという断絶を生むこと、また、コミュニケーションのために生まれたはずの言葉が、かえってその阻害に機能してしまうというテーマが打ち出される。言葉にまとわりつく意味合いは、登場人物の薄皮のように身体を覆う衣装で表現されている。銭湯(入浴)のシーンによって、裸の状態における個性(差異)の存在が強調され、差異の存在を前提にしながら同じ(平等)であろうとするために歪み(同調圧力)が生じることが、後の、自己啓発セミナー的なシーン(?)で問題にされる。不倫している女性、施設に入居している老女、マッチングアプリで知り合う男性という主要登場
人物は、空気を読めない(読まない)人物として、造形されている。

フードコートの場面は、選択の自由(=非決定論)を象徴する場として登場する。それに対し、舞台は竜宮のイメージで飾られている。それは『浦島太郎』において選択の自由を可能にする場面は存在しなかったのではないかという決定論をめぐる会話や、30年という時間を行き来するプロットが竜宮=異界との時間の相対性に関わること、また
マッチングアプリで知り合った男女が旅先で話題にする「ホタルイカの身投げ」をめぐる環世界的あるいは金子みすゞ的(「大漁」)状況に結びつけられているのだろう。

連続しているものに境界を見出す性向への疑義が、とりわけ皮膚と外性器との異同という形で明確に呈示される。舞台で物語が進行する中、ステージの上方や、観客席の通路、さらに会場外で歌声や音楽を響かせる演出には、相対的な世界(=時間の相対性)の描出だけでなく、境界の曖昧にする意図が明白である(そもそも客席の通路から台車
をステージに移動させる形で物語が始まったのだった)。