可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『MEN 同じ顔の男たち』

映画『MEN 同じ顔の男たち』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のイギリス映画。
100分。
監督・脚本は、アレックス・ガーランド(Alex Garland)。
撮影は、ロブ・ハーディ(Rob Hardy)。
美術は、マーク・ディグビー(Mark Digby)。
衣装は、リサ・ダンカン(Lisa Duncan)。
編集は、ジェイク・ロバーツ(Jake Roberts)。
音楽は、ベン・サリスベリー(Ben Salisbury)とジェフ・バロウ(Geoff Barrow)。
原題は、"Men"。

 

ロンドン。タワーブリッジや市庁舎の塔を臨むアパートメントの1室。雨が降り始めた。オレンジ色のカーテンが風に揺れている。キッチンに立っていたハーパー(Jessie Buckley)が窓を閉じに行く。ハーパーの顔には鼻から流れた血の跡がある。窓外を落下するジェームズ(Paapa Essiedu)。彼の顔がはっきりと見える。
ヘレフォードシャー州コットソン。野原でタンポポの綿毛が飛ぶ。野原と森との境には廃墟がある。ハーパーの運転する空色のフォード・フィエスタが草原の中の道を抜ける。車は石積みの家が立ち並ぶ村に入り、1軒の邸宅の前で停車する。生け垣に挟まれた門を抜けると、庭にはリンゴの木が立っていた。ハーパーはリンゴの実を1つ手にすると、囓る。その様子を邸宅の中から男(Rory Kinnear)が眺めている。
ハーパーが扉をノックすると、男が姿を現わす。こんにちは。マーロウ夫人ですね? ハーパーと言います。ジェフリーです。どうぞ中へ。運転は大変だったのでは? いいえ、そんなことありません。M4号線は苦行だって言いますけどね。素晴らしいお屋敷ですね。500年近く前の部分もありますから。シェイクスピアの時代、それよりも遡るものですよ。荷物は車ですか? 運びますね。手伝いましょうか? いえ、寛いで下さい。湯が沸いてます。真っ直ぐ行ったところのキッチンです。紅茶は食器棚、ミルクは冷蔵庫に。
ジェフリーが荷物を運びに出て行くと、ハーパーはリンゴを囓りながらキッチンに向かう。リンゴをテーブルに置くと、キッチンの作りを確認し、紅茶を淹れる。クソっ! 廊下でジェフリーが荷物を運ぶ途中に落としてしまった。手伝いましょうか? いえいえ、問題ありません。汗だくですよ。手伝ってもらってればと思ってしまいました。でも全てやってもらいとお望みでしょうから。2週間の滞在ですよね? そうです。キッチンにジェフリーが入ってくる。紅茶、分かりましたね。良かった。テーブルの上のリンゴを見たジェフリーがハーパーに尋ねる。庭のリンゴ? ええ、美味しかった。リンゴ泥棒? それはしてはダメだ。それこそ禁断の果実だ。神様、すいません…。冗談ですよ。好きなだけどうぞ。チャツネを作ったらいい。どうせ地面に落ちてダメになるんです。スズメバチが集るんですよ。
建物をご案内しましょうか? ええ。それでは1階から始めましょう。応接室です。テレビは受信状態が良くありません。雨が降っているとちゃんと映らない。何故だか分かりませんが。暖炉はいいですよ。薪が足りないなら小屋に積んであります。ピアノ室に行きましょう。あなたピアノは? いいえ。私も弾けません。ダイニングルームをご案内しましょう。サンデーローストに相応しいですよ。クローク・ルームです。コート、傘、長靴などなど。絶対に家の中を泥の付いた靴で歩かないで下さいよ。2人は階段で2階へ。ぐらぐらしてますけどね、勇気を持って下さい。ジェフリーが浴室を案内する。清潔なタオル、沢山の石鹸。長い散歩の後は大きな風呂に入って下さい。…ああ、申し上げにくいのですが、女性が流すものには注意して下さい。浄化槽が対応できないので。まあ、ここまでにしておきます。最後に、ジャジャーン、主寝室です。素晴らしい眺めでしょう? 木々の先の教会の尖塔が見えますか? あれが村です。目と鼻の先。興味があるなら素敵なパブがありますよ。行きは10分。帰りは30分。2人は階下に向かう。シーツなど洗濯しますが、あなただけか…。ええ、私だけです。ご主人はどこに? マーロウ夫人では? 違います。まだ姓を変更していないんです。それは失礼しました。大丈夫です。Wi-Fiのパスワードやら何やらは全てピアノの上にまとめて置いてあります。これがこの館の鍵です。なくしても心配いませんよ。正直言って、この辺りじゃ鍵を掛ける必要なんてないんです。素敵なお屋敷です。私が望んでいた通りのものです。お好きなようにどうぞ。もし必要なら電話番号を教えますよ。私はこの道路のすぐ先に住んでいます。猛犬注意の看板のある小さな家です。飼い犬は死んで5年になりますよ、ガチョウにさえ吼えない奴でしたが。ありがとう。それでは。ジェフリーが出て行く。
応接室のカウチに坐りながら、ハーパーがライリー(Gayle Rankin)とヴィデオ通話している。ちょっと派手に使い過ぎたかな。そんなことない、素晴らしいわ。夢み見たカントリー・ハウスだもの。邸内ツアーをお願いできない? 全部見たい。後でいい? オーナーのジェフリーを見て回ったばかりだから。彼は随分変わってたわ。何で? いかにもな典型的な田舎の人。明日はライチョウを撃ちに? それ最高ね。ジェームズについて聞かれたの、実は。何で彼がジェームズについて尋ねるわけ? マーロウ夫人で予約してたの。自分でも不思議だけど。特に気にせず書いちゃったんでしょ。で、何て説明したの? 何も言わなかったわ。離婚したことを仄めかしたけど。ハーパー…。止めてよ、何が言いたいか分かるから。こんなこと、いくらでもあることだし、人生を通じてね。だから馴れないと。分かったわ。でも私が何を言おうとしてるのかは分からなかったんじゃない? ゾウは跳べない唯一の動物だって知ってたって聞こうとしたの。2人で知っておくべき面白い事実なのよ。面白そう。スマートフォンの画像が乱れ、音声が途切れる。…象に乗る技術を競ったりすることは決してないわけ。ごめん、通信が切れちゃって。もう、1人で調子に乗ってた。またね。2人はヴィデオ通話を終了する。

 

イングランド南西部。ハーパー(Jessie Buckley)が青いフィアットで田園地帯を抜ける。向かうのは、ヘレフォードシャー州コットソン。石積みの古い建物が並ぶ美しい村。その1つの城館の前で車を停める。ハーパーは思いきって、憧れだったカントリーハウスに2週間滞在することにしたのだ。庭のリンゴの木にはたわわに実が付いていた。1つを捥いで囓る。出迎えた館の所有者ジェフリー(Rory Kinnear)に、ロンドンからの運転を労われ、紅茶で一服するよう勧められた。続いてジェフリーに500年前に遡る部分もあるという建物を案内してもらった。ガラス張りの明るい応接室、大きな浴槽の具わった広い浴室、木々の向こうに村を臨む主寝室。全てが素晴らしい。建物の案内が終わったところでジェフリーからご主人は、と尋ねられる。うっかり「マーロウ夫人」で予約していたのだ。ハーパーは手続きを終えていなくてと離婚を仄めかして1人での滞在であることを伝える。ハーパーはジェームズ(Paapa Essiedu)との離婚の意思を固めていたが、離婚を頑なに受け容れようとしない夫との諍いの最中に殴られ、夫を部屋から閉め出した。その後、アパルトマンの上階からジェームズが転落して亡くなっていた。ハーパーは親友のライリー(Gayle Rankin)に到着を報告すると、早速、館の周囲に広がる森に散策に出かける。美しい木々の緑は心を落ち着かせ、突然の雨も慈雨に感じられた。廃線跡を歩いていて見付けたトンネル。誰もいないと思っていたハーパーは、反対側の出口に人影を認める。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

男性の墜落は、父なる神(男性)による支配(キリスト教道徳)の失墜を象徴する。
冒頭、ハーパーがカントリーハウスの庭のリンゴの木から林檎を捥いで囓る。禁断の木の実を口にしたとジェフリーに揶揄われ、ハーパーは感嘆詞として「神」(≒父)を口にする。これはハーパーがキリスト教の教義ないし、それに強い影響を受けた道徳規範(≒男性による支配)を受け容れていることを暗示する(「マーロウ夫人」として予約を入れいていることがその証左である)。
古い教会の説教壇は石でできていて、そこにはキリスト教とは関係のないレリーフが象られている。土着の信仰とキリスト教とが混淆していった歴史を物語る遺物である。そして、森は、キリスト教の影響を受けていない領域を象徴する。廃線跡のトンネルでハーパーが目にするのは、今は廃れてしまったかつての土着の信仰(の象徴)である。それによってハーパーはキリスト教的な社会規範を相対化することになる。
タンポポもまた土着の思想の象徴だろう。その綿毛を呑み込むのは、キリスト教的社会規範とは異なる価値観を受け容れることを示している。
歌や音楽(車中、ピアノ)を1人楽しむのは、喜びを男性によって与えられる必要はないことを示す。
異端的価値観を抱えることは秘せられねばならなかった。「かくれんぼ」をしなければならなかった。ハーパーに対して注がれる男性の眼差し。ハーバーに対して伸ばされる男性の手。キリスト教的社会規範の檻(密室)で恐怖に震えるだけのハーパー。だが、やがてハーパーは男性支配に抵抗する術を身に付けるだろう。もはや自分の価値観を隠蔽する必要はない。