展覧会『Tokyo Contemporary Art Award 2022-2024 受賞記念展 サエボーグ「I WAS MADE FOR LOVING YOU」&津田道子「Life is Delaying 人生はちょっと遅れてくる」』を鑑賞しての備忘録
東京都とトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)との中堅アーティスト対象の現代美術賞「Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)」。2022-2024の受賞者であるサエボーグと津田道子による個展を同時に開催。サエボーグは、ラテックス製の着ぐるみのキャラクター「サエドッグ」が暮らす住居と森のテーマパーク風インスタレーション《I WAS MADE FOR LOVING YOU》を展開。津田道子は家にヴィデオカメラがやって来た日のテスト撮影を芝居にした映像作品《カメラさん、こんにちは》を始め、日常の何気ない所作を作品化して見せる。
サエボーグ「I WAS MADE FOR LOVING YOU」は、同題のテーマパーク風インスタレーション及びラテックス製の着ぐるみの犬「サエドッグ」のパフォーマンスで構成される。小川が流れる森を背にした開けた場所にある、塔と屋根裏部屋を持つ赤い屋根の家(赤い柵が家の敷地を仕切るのではなく上空を横切るのは何故だろうか)。そこには1匹の犬「サエドッグ」が暮らしている。家の中は淡いピンクで統一され、緑色の窓とオレンジ色のドア以外の家具――カウチ、ランプ、柱時計、テーブルと椅子、台所と冷蔵庫――は全てアメリカンコミック調で壁に描かれたものである。周囲に拡がる自然――針葉樹や小川、芝生――もアニメーションの背景画のような趣で、展示空間の奥、「サエドッグ」のいる円形ステージの辺りで複数の色の帯に溶けて、展示室の白い壁に消えていく(ディズニーランドのようにはテーマパーク内で完結した世界を構築していない)。「サエドッグ」同様、ラテックスで作られているのが樹木と巨大な糞である。家の内外に落ちる糞にはリアルな巨大な蝿が集っている。家の屋根も鳥が糞で汚す。人口と自然、平面と立体、アニメーション調の描写とリアリティのある造型が同居するとともに、糞や蝿の巨大化が不穏な雰囲気を醸成する。「サエドッグ」は円形ステージの上を愛嬌を振りまき動き回るが、決してステージ外には出られない。その目からは涙が流れている。愛情を持って監禁する、人間と飼い犬との非対称な関係の歪さが鑑賞者を浸していく。そして、ラテックス製の着ぐるみは、犬と人間との関係だけではなく、人間と人間との関係をさせもしよう。例えば、歪んだ「愛情」に衝き動かされた男により長年監禁・虐待を受けた女性(母子)を描く映画『ルーム(Room)』(2015)が思い出される。ヨハンナ・シュピリ(Johanna Spyri)の小説『アルプスの少女ハイジ(Heidi)』(1880-1881)でも、クララのために都会の屋敷に軟禁されたハイジが精神を蝕まれるという筋書きであった。対動物にせよ対人間にせよ、愛情が根底にあるが故に却って監禁の闇の性質が覆い隠される。愛玩の下にある構造を露呈させるために《I WAS MADE FOR LOVING YOU》に居心地の悪さを感じるのだろう。
津田道子の映像作品《カメラさん、こんにちは》は、1980年代末のとある家庭で、ヴィデオカメラを手に入れた父親が母親と娘と一緒にテスト撮影する場面を芝居に仕立てたものである。台所のテーブルには葡萄を載せた皿が置かれ、父親、母親、そしてはしゃいで動き回る娘が葡萄を食べながらたわいもない会話をする。カメラに映っているのかいないのか、自分が画面の中心かどうか。娘は学校であった集会で聞いた物語『よわむし太郎』を説明する。父親は眼鏡、母親はエプロン、娘ははしゃぐ存在として記号化された3つの役が、12名の俳優により性別・年齢・言語に関わりなく交代で演じられていく。結果として浮上するのは、核家族であり、父親・母親・子供の役回りであり、家庭の中心は誰か(存在するのか)といった問題である。
《カメラさん、こんにちは》において三脚に固定されたヴィデオカメラは、家族が自らを映し出す鏡である。撮影から視聴までの間にはたとえ僅かだとしても時間差が生じる。その時間差を暴き出すのが、廊下の一方の端に設置したヴィデオカメラによる映像が、廊下の反対側の画面に時差をもって投影されるインスタレーション《振り返る》であり、鑑賞者は廊下を歩いて行った先に置かれたモニターで数分前の自らの姿を確認することになる。時間とは距離であり、その距離によって対象を認識することが可能となる。翻って、距離無くして対象を認識することはできないのである。あるいは時間は変化であり、たとえ自己であっても現在の自分とは完全には一致しないがために比較対照が可能となるとも言えよう。
《カメラさん、こんにちは》でも、《振り返る》でも、見られると見るという役回りが入れ替わる。暗い空間のスクリーンに投影される演者のパントマイム的な挙措と、鏡に映り込みあるいはフレームによって切り取られる鑑賞者の姿とが同居するインスタレーション《生活の条件》もまた、見る見られるの役回りが反転される。入れ替え可能であることは、相互を等価に扱うことである。だが等価に扱うことは必ずしも画一化を意味しない。むしろ、等しく扱うからこそ、個々の差異が鮮明になる。《カメラさん、こんにちは》や《生活の条件》の演者たちはもとより、《カメラさん、こんにちは》や《振り返る》のカメラに映り、あるいは《生活の条件》の鏡に映りフレームに収まる鑑賞者たちは皆違うのである。
冒頭に設置されたタブレットで上映される《あたたとわなし》は、間を開けて並べた2枚の縦長の鏡の前後にそれぞれ椅子を置き、世代の異なる赤い服の女性が坐って読書する姿などが映し出される。中に吊されたカメラは振り子のように左右に動き、その度に手前が映ったり奥が映ったり、イメージが変化していく。ルネ・マグリット(René Magritte)が森を抜ける騎乗の女性をモティーフに、見えない部分と見える部分とをずらして描き出した《白紙委任状(Le Blanc-seing)》(1965)のテーマを映像で表現したような作品である。《あたたとわなし》を想像力で《あなたとわたし》に変換することは容易い。ところで、AとBとの2人がいるとき、わたしはAであり、Bでもある。あなたもBであり、Aでもある。「あなたとわたし」は交換可能である。だがAとBとは同じではない。2007年作の《あたたとわなし》によって、作家が現在まで首尾一貫した制作を行ってきたことが示される。