可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 糸川ゆりえ個展『水の鏡』

展覧会『糸川ゆりえ「水の鏡」』を鑑賞しての備忘録
TATSURO KISHIMOTOにて、2024年10月12日~11月2日。

自然の中で揺蕩う女性や舟を光跡とともに表す絵画で構成される、糸川ゆりえの個展。

《夜明け方》(974mm×1130mm)は、両腕を拡げて仰向けになっている(ように見える)女性が、スカートの膝から先が切れてしまうほど画面一杯に描かれた作品。目を閉じる女性の頭部は大きな体に比して極めて小さいが、豊かな髪は腰の辺りまで広がっている。クリーム色のセーターと茶色のスカートとはどちらも毛足が長く、太めの指と相俟って、どこか獣を連想させる。小さな頭部と巨大な身体というデフォルメは、飛膜を広げて宙を滑空するムササビを連想させるのかもしれない。女性が浮くか漂くかしているように見える。女性の背後は藍の上に白が重ねられ、水面のようにも空のようにも地面のようにも見える。そこには白や黄が光跡のように射している。眠る女性は死んでいる。だが夜明けとともに再生するだろう。そのように解釈する理由は、会場を巡り作品を眺めるうちに明らかになるだろう。
《海辺より》(16204mm×1300mm)はやや灰色味のある藍色の海を背に暗い群青のワンピース衣装の女性が立ち尽くす場面を描く。牡丹雪が混じる降雪の中(衣装の白い線は意匠なのか舞う雪なのか判然としない)、身体に比して極小の頭部の口から吐かれる息が白い。それでも素手と素足とを晒している。女性の背後には数層の小舟が浮んでいるのが見えるが、舟は彼女のメタファーであろう。足先は画面から切れて見えないのは、地に足が付かず、浮遊している様を表すためだ。海は此岸と彼岸とを隔てる境界である。向こう岸は死者の世界である。
《少しだけ休むこと》(518mm×730mm)は木々や草に囲まれて、女性が横になっている姿が黒一色で描かれている。横方向に刷かれた線により、女性は流されているようでもある。それでも擡げた頭部により「風流な土左衛門」(ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)《オフィーリア(Ophelia)》)たることからずらしてある。永遠にではなく「少しだけ」休む(死ぬ)ことが示されている。
《レイクサイド(極楽浜)》(727mm×1000mm)は遠くの茶色の山並と緑の湖面を背景にした2人の女性を描く。湖畔に立つ2人は1人は緑、1人は茶色で表され、緑と茶の世界に一体化している。湖面には真菰か何かが所々で姿を見せる。傾いだ緑の女性と、風景に溶け込むように表された茶色の女性とは、水中で漂う水草のようでもある。茶色の女性は緑の女性のイマジナリーフレンドかもしれない。いずれにせよ、極楽浜なら幽明境を隔てた人とも会うことが叶いそうである。
《モーニング》(380mm×455mm)は、水に足を浸す山吹のドレスを来た2人の女性を金とレモン色の光溢れる世界の中に表した作品。だが足先が水に隠れて見えないのは、幽霊への連想を誘う。モーニング(morning)は容易に喪(mourning)に容易に転換することはないだろうか。
水の鏡とは、此岸と彼岸との境界ではないか。女性は舟であり、水を介して両岸を往き来する存在として表されているのである。死者からの視線を現世にもたらし、複眼的思考の間で揺れること。それが作家の描く世界ではないか。作品の随所に射される金・銀は光であり、視線であり、魂であった。