展覧会『コノハ展「何が言いたい?」』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテbisにて、2024年8月26日~31日。
カラーコーン、イヤホン、リンゴ、蕎麦、輪ゴム、折り紙、そして人と動物とをモティーフとした絵画で構成される、コノハの個展。
街中で見かけるカラーコーンのドローイング「三角なあいつ」シリーズ6点が地下の会場へ向かう階段の壁面に並べられている。街の片隅に佇むカラーコーンには、傷んだもの、重ねられたもの、メッセージが張られたものがある。路上観察的手法により美術に取り組んでいることが予告される。
《美人画》(1620mm×970mm)は室内でワンピースを身につけた女性がパイプ椅子に腰掛ける全身像を藍色の濃淡により表わした作品。背後の壁に正対し、女性の左斜め前から描かれている。女性が頭にカラーコーンを被っているのが何より目を引く。ルネ・マグリット(René Magritte)が顔の部分に花やリンゴの実や鳥などを重ね、あるいは頭部に布を被せた肖像画を描いているのが想起される。室内にいながら(裸足であることで強調される)カラーコーンにより注目を集め、なおかつ匿名性を維持する。それはオンラインの世界にあることのメタファーであろう。
《safe》(1940mm×1303mm)は暗い部屋で椅子に腰掛ける男性の横から眺めた肖像。湯気の立ち上るマグカップを右手に持つ。この人物は赤地に白の縞の入ったカラーコーンを頭部に被っている。男の足元にはぼんやりとした光がある。また、前後は黒い壁で遮られているらしく、画面左右両端に大きく取られた黒の塗り潰しにより、閉鎖的な環境であることが表現されている。ネットカフェの個室が舞台に想定されているのかもしれない。《美人画》に通じる、オンラインに生きる人物の肖像である。
《議論》(894mm×1453mm)は、ダークスーツの身体を持つイヤホンの頭部のLとRとが顔を付き合わせる様子を描いたモノクロームの絵画作品。胸ぐらを摑み、あるいは指を突き出す様子は、画面の中心に異様に大きく表わされた血管の浮く拳、あるいは小林永濯《菅原道真天拝山祈祷図》を連想させるような光などの効果線などにより漫画的に表現されている。パッシヴにせよアクティヴにせよノイズキャンセリング機能を搭載したイヤホンならなおさら、イヤホンは聴く耳を持たない。それでは議論になることはない。論破を貴ぶ風潮や、サブウェーで注文できなさそうな政治家風情の跋扈する世相を揶揄する。
《沈まぬ舟》(300mm×600mm)は、ワニの口の中に入っている折り紙の舟をほぼ青のモノクロームで表わした作品(背景も黒に見えるが濃紺なのだろう)。手前には唯一の立体作品である、白い長骨をソーセージの代わりにパンに挿んだホットドッグ《HOTDOG》が置かれている。ホットドッグがアメリカ発祥であることからすれば、《沈まぬ舟》のワニはアメリカワニであり、紙の舟は折り紙の文化を持つ極東の島国であろう。実際にはワニ(=アメリカ)とともに水中に沈んでいるのであり、それが青い画面の理由であろう。
《Gift》(894mm×1455mm)は、鉄枠にブルーシートをかけたステージのような場所に、両手両足を拡げた人の形の穴が穿たれ、そこに山羊が糞をしている作品。責任転嫁されたスケープゴート(生贄の山羊)から逆襲を受ける人間の姿を描く。ブルーシートのステージは、人類無き後の地球の姿であろう。人間による搾取のない生命の楽園は、まさしく競争の無意味化した「ブルーオーシャン」である。
《idea》(727mm×606mm)は、林檎の形をしたステンレス製(?)のビスケット型枠に嵌まっている林檎を描いた作品。 ヨシタケシンスケよろしく「りんごかもしれない」。絵画が捉えるべきは、プシュケーが見たはずのイデアである。だが描かれたリンゴの型枠よろしく、私たちは肉体に囚われ、イデアの似姿を捉えるに過ぎない。感覚する対象を超えてイデアを想起しなければならないと、作者は訴えるのである。路上観察的にくり返しカラーコーンが描かれるのも、イデアを想起するためであったのだ。