展覧会『嵯峨篤「Synchronicity」』を鑑賞しての備忘録
SCAI THE BATHHOUSEにて、2025年1月25日~4月5日。
4種類の赤色顔料を調合した臙脂をウレタン樹脂を用いて塗布し、表面を研磨することで漆芸品のような光沢と深みとを持つ絵画「Sync」シリーズで構成される、嵯峨篤の個展。
《25 Syncs》(3042mm×3042mm)は、《Sync/001》~《Sync/025》(各606mm×606mm)を縦横に5枚ずつ並べて1つの作品としたもの。さながら水鏡のように周囲を映す画面は漆芸品に近い表情を持つ。それもそのはず、顔料を塗り重ねて研磨すると言う工程は漆芸技法に通じる。斑無く臙脂を塗布した単色絵画はミニマリズムの作品に見える。画面に近付くと、幽かにサイン波や双曲線のような曲線が現われる。画面の基調色と僅かに異なる色味の赤で、リサジュー曲線と七宝文様を表わしたものだと言う。リサジュー曲線は2つの単振動の合成により得られる平面図形であり、音を連想させる。一見静止した水面の中に生命の胎動を宿しているのである。七宝文様は円形を重ね併せることで無限の連鎖を暗示し、植物を図案化した唐草文様同様、生命の豊饒さを言祝ぐ。生命の連続性を主題とする作品の展示に「Synchronicity」を冠しているのは、生命それ自身は決して死なないという生の永遠性との関係で生じる「自己」の問題を訴えるためではなかろうか。
「現在」という時間、イントラ・フェストゥムという名を与えられながらも、それ自身は境界であるがゆえに、空間化された現在としては到底とらえられない時間、まさに木村〔引用者註:木村敏〕がてんかん、禅、天才性(創造性)、あるいは「永遠の今」という西田的タームをもちいてみいだしていく「この現在」という、いわば言語的には不可能である次元が、ここで問題になってくる。そこでの「現在」とは、一面ではすべての時間を包括する場所性=空間性でもあるのだが、同時に境界性としての「瞬間」でしかない。それはいわば、どこにでもありつつどこにもない場所、これとは特定できない界面である以外にはない。ところが、こうした「あいだ」=境界のあり方は、自己と世界や、自己と他者が「ある」と感じられることそのものにむすびついている。
「あいだ」がもつダイナミズムを、しかし普遍化されない何かとしてではなくポジティヴに表現するのは、木村がタイミングや偶然性を俎上にのせてくる議論においてである。1992年に出版された『偶然性の精神病理』で、偶然性やタイミングが主題化されるが、そのあたりから生命論的差異の主題が明確になることは、けっして偶発的なことではない。境界を指し示すのに、時間的なタイミング性や、そこでの邂逅の偶然性以上に適切な事例は、そうそうないように思われるからである。(略)
(略)そしてまた、生命論的差異を論じるときに鍵となる、ヴァイツゼカーの「生命それ自身はけっして死なない」という生の永遠性と瞬間性の問題も、これに連関するものである。そこでは「現実との生命的接触」(ミンコフスキー)あるいは「行為的な関係」(西田)において「他者に触れ」「世界に触れる」ことでそのものが問題となる位相がとりあげられるからである。
タイミング論からみてみよう。精神病理的な観察からえられた他者との(木村の事例では父との)タイミングがあわない、あるいは自分のタイミングが「ずれる」」という症例を扱いながら、木村はつぎのようにのべていく。
このような[タイミングというような]時間が動き出す一瞬の刹那、これは普通に言う個人的・主観的な「内的時間意識」でも、その根底に(個人の意識を超える拡がりとして)考えられている「永遠の現在」とでもいった全一的な次元のことでもない……意識の現象であると同時に意識の現象でもないような出来事であり、個人を超えると同時に個人に属してもいる出来事である。ここで木村は、垂直な深部としての「生命性」(それ自身を言表化すれば――もちろんそれは不可能であるのだが――「永遠の現在」という「全一的」なものとしてイマージュ化せざるをえないもの)と、意識として言表化され、ノエマ的に整序化されてしか示されない位相という、深さと装層との接触面を、自己と他者、そして自己と世界が成立する局面としてとりだしてくるのである。
だから、タイミングと自己のあいだには思いもかけぬ深い関係、この2つを同義語として見なしていいほどの共属関係がある。われわれが自己とか自分とか呼んでいる何かは、はじめからわれわれの所有物として与えられているものではない。われわれはそのつど世界との出会い、他人との出会い、あるいは自分自身との出会いに際して、瞬間瞬間にその何かを経験のなかに獲得し続けているにすぎいない。
こうした瞬間は、すでにできあがった自己によってはけっしてコントロールできないという意味で偶然性に充ち、そもそも自己を自己として成立させる力に溢れ、それゆえ意識的なものとしては把握できない「発生機の」in statu nascendi状態にあるものとされる。それはまさしく、タイミングがある、タイミングがあわないという界面的な事情において、空間的な差異と同一性を生みだす場面なのである。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.191-194)
われわれはそのつど世界との出会い、他人との出会い、あるいは自分自身との出会いに際して、瞬間瞬間にその何かを経験のなかに獲得し続けているにすぎいない。決して死ぬことのない生命の無限の流れの中での「Synchronicity」こそ、自己なのだ。