映画『マルティネス』を鑑賞しての備忘録
2023年、メキシコ製作。
96分。
監督・脚本は、ロレーナ・パディージャ[Lorena Padilla]。
撮影は、ヘラルド・ゲラ[Gerardo Guerra]。
美術は、マイテ・ペレス・ニエバス[Maite Pérez-Nievas]とマリアン・セブリアン[Marianne Cebrián]。
衣装は、コンスタンサ・マルティネス[Constanza Martínez]。
編集は、リオラ・スピルク ビアロストスキー[Liora Spilk Bialostozky]。
音楽は、アルバロ・アルセ[Alvaro Arce]。
原題は、"Martínez"。
メキシコ、グアダラハラ。早朝のアパルトマンの1室。テレビの音が鳴り響く。人の気配はない。
ブザーが鳴る。マルティネス(Francisco Reyes)が目覚まし時計を止めて耳栓を外す。階下からテレビの騒音が止まない。ベッドに坐り首を廻す。パジャマの上着を脱ぐと、ベッドの脇で腕立て伏せをする。シャワーでバケツに水を溜めつつ便器に坐る。用便を済ませ、バケツの水を便器に流す。シャワーを浴びようとすると水だった。ボイラーに行き、火を入れる。
スーツに身を包んだマルティネスが階下の2Bの部屋のベルを鳴らす。テレビの音がするばかりで反応はない。ノックする。やはり反応はない。マルティネスは諦める。
バス停に向かう。老女の2人組がベンチに坐りお喋りに興じている。バスに乗ると、背後の座席の少年が興じる携帯ゲーム機の電子音が喧しい。バスを降りて仕事場に向かう。
オフィスのデスク。マルティネスが抽斗からステープラーや電卓、マグカップを取り出し、机に並べる。ファイルを拡げる。
9時を廻る。同僚はオレンジを食べ始めたり、新聞の数独を解いたりしている。
12時を廻る。着任したパブロ(Humberto Busto)が受付のコンチータ(Martha Claudia Moreno)と挨拶を交わす。コンチータはパブロを伴ってマルティネスのデスクにやって来た。パブロです。マルティネスは彼の顔さえ見ない。あなたの後任者よ。どこからの異動でしたっけ? 西部支社ですよ。海の近くにあるんです。何かの間違いじゃないか? いいえ。パブロは優秀なのよ。人事に確認する。無理よ、彼女は今日、お休みだから。月曜には出社するわ。パブロ、あなたのデスクはそこよ。必要なことがあれば遠慮無くおっしゃって、お手伝いするわ。お菓子や雑貨も扱ってるのよ。オフィスは市場じゃない。ありがとう、ご親切に。ほぼ同い同ですから。同い年? コンチータ、君は50だろ。私の10歳下なんだから。そうか、僕もあなたも10歳下同士で同じですね。そうよ、10歳下同士。私、今月、誕生日なの。それはそれは、おめでとう。今日じゃないけどね、ありがとう。電話のベルが鳴る。私がでないと仕事が回らないわ。じゃあ、頑張ってね。コンチータは受付へ向かう。鞄を自分のデスクに置いたパブロはマルティネスにコーヒーマシンの場所を尋ねる。マルティネスはパブロを見ずに手で指し示す。跡で引き継ぎをお願いしますよ。月曜に誤解が解けたらの話だ。
メキシコ、グアダラハラ。マルティネス(Francisco Reyes)は独り身の気難しい会社員。平日は会社と家とを往復し、休日には近くのスポーツセンターに泳ぎに行く暮らしを規則正しく続けてきた。マルティネスは受付係のコンチータ(Martha Claudia Moreno)から社交的なパブロ(Humberto Busto)を後任として紹介される。失職を避けたいマルティネスが人事部の女性(Martha Reyes Arias)に雇用継続を掛け合うと、パブロに引き継ぎを行うなら嘱託勤務の申請に協力すると言い渡された。マルティネスはここしばらく階下のテレビ騒音に悩まされていたが注意しても反応がない。家主(Maria Luisa Morales)の通報で救急隊員が駆け付け、死後半年と見られる遺体が階下の部屋から運び出された。孤独死した住人からの贈り物を大家から受け取ったマルティネスは俄然亡き女性に対する興味が湧き、ゴミに出された遺品を自室に回収する。
(以下では、全篇について言及する。)
マルティネスは孤独を仕事と水泳とで紛らわせている。彼の仕事は後任のパブロによって奪われようとしている。仕事を失えば、自らを苛む孤独にいかに対処すれば良いのか。毎日朝から晩までプルで泳いでやり過ごすことなどできるだろうか。
大きな音でテレビを聴いていた階下の住人アマリアは、自らの寂しさをテレビの音で打ち消していたのだろう。アマリアの遺体が回収されテレビの騒音が消えるのと、マルティネスの失職(の危機)とはパラレルである。マルティネスが自分のテレビのスイッチを入れるのは、嘱託契約に希望を繋ぐことのメタファーである。
マルティネスに贈られたアマリアからのプレゼントは鳥の置物だった。言わば「青い鳥」である。マルティネスは幸福が身近に存在していたことに気付くのだ。マルティネスはゴミに出されていたアマリアの遺品を回収し、自分の部屋に飾り、雑誌や手帖を読み、カセットテープを再生する。料理本を見て料理に勤しむ。プラネタリウムに星を見に行き、花屋で花を買う。マルティネスはアマリアの行動をなぞることで、マルティネスはアマリアと一体化する。喜びを感じるマルティネスには、パブロやコンチータを思いやる余裕が生まれる。
(以下では、結末についても言及する。)
マルティネスはアマリアの記念日にディナーを用意し、プレゼントの下着を買う。ベッドに下着を置き、マルティネスが下着に手を這わせる。このとき、魔法が解けてしまう。なぜならマルティネスに一体化していたアマリアが下着を身につけるべき相手として切り離され、アマリアが実体無き空虚な存在であることが明らかになるからだ。
マルティネスはパブロとの関係を改善しながら失職を恐れて人事には低評価を告げ、自らの浅ましさを嘆く。パブロはマルティネスの後釜に坐ることに失敗し、意中の人に振り向いてもらえない。コンチータはマルティネスへの想いを叶えることができない。ままならない人生の苦みが描かれ、ハッピーエンディングは行かない。
それでも、マルティネスは以前のマルティネスではない。これまでの単調な生活を象徴するプールを離れ、何が起こるか分からない海に臨む。