展覧会『知られざるモダニスト 寺田至 画集『Life』刊行記念展』を鑑賞しての備忘録
不忍画廊にて、2025年1月15日~2月1日。
寺田至(1951〜2014)の絵画展。
《イタリア・広場で》は巨大な円柱の間から広場を眺めた作品。右手の灰色の円柱、左手の暗い円柱の蔭(?)がフレームとなり、灰白色の広場の地面、淡いレモン色や茶色の建物、そして薄い雲のかかる青空を切り取っている。油彩作品であるが、薄塗りでさっと描かれ、スケッチないしスナップショットとしての印象を生む(なお、アンドレ・ケルテス(André Kertész)の写真に大きな影響を受けたことがケルテス自身やケルテスの作品をモティーフとした作品などにより紹介されている)。旅行者の視点を画面に反映させている。
朱や緑などの組み合わせで靴を履いた足先を描いた《予兆》や《お出かけ》といった足(靴)をモティーフとした作品は、タイトルからも微分的な操作を行っているようである。普段に変化するものをいかに捉えるか、それが作家の意図ではないか。
《私の席で》は、右腕を背凭れの後ろに回してカウチに腰掛ける人物を描いた作品。眼鏡をかけ、ネクタイを締めたスーツ、あるいはジャケットに色違いのパンツの男が、画面上段に左右――厳密にはやや重なるように前後――に、下段に1人と、衣装や髪色は違えるものん、全く同じ姿勢で描かれている。同一人物を異時同図法のように捉えている。ソファと人物以外の部分がクリーム色で塗り潰されるが、男の脹ら脛から下の部分が描かれていないのは、ソファとともにすやり霞的な効果を狙っているのかもしれない。《イタリア・広場で》など擦過するような光景の刹那を固着させた作品と対照的に、繰り返される日常が浮かび上がる。同じように見えながら、実は刻々と変化する。変化こそ時間であり、生命である。
《女》・《男》は対の作品で、ピンクの画面に女性と男性の衣装だけを配している。敢て人物を描かず、変化し続ける生命を画面に固着させることができないと手を挙げて見せることで、鑑賞者に変化、時間、生命を想起させようと目論むようだ。