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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『九州派イン東京地方 第2期「九州派にまつわる資料と九州派作家の作品」』

展覧会『九州派イン東京地方 第2期「九州派にまつわる資料と九州派作家の作品」』を鑑賞しての備忘録
Mikke Galleryにて、2025年5月5日~15日。

桜井孝身とオチ・オサムを中心に、菊畑茂久馬、山内重太郎、田部光子、齋藤秀三郎らアカデミックな美術教育を受けていない画家たちによって福岡で結成された前衛美術集団「九州派」を記録写真などで紹介するとともに、九州派に属した作家である桜井孝身、オチ・オサム、菊畑茂久馬、山内重太郎、寺田健一郎の絵画を展観する企画。

伊藤研之を師匠と仰ぎ、二科展に入選していた寺田健一郎と黒木耀治は画壇から離れて活動することを模索。1953年6月、米倉徳や中川保孝とともに福岡市天神の空き地に「青の家」を設営。アトリエとしては狭小のため若手芸術家のサロンとなった。程なくして独立展や西日本美術展などに出品していた木下新がアトリエとして占拠し、山内重太郎や菊畑茂久馬が通う。
寺田健一郎と黒木耀治は、板橋謙吉の「詩科の会」の詩誌『詩科』の表紙やカットを描き、詩人の小幡英資や桜井孝身と付き合いがあった。因みに『詩科 4』の編集後記には「詩科の会」同人と「青の家」メンバーによる展覧会構想が記される。
桜井孝身は、1955年の第40回二科展(東京都美術館)に初入選し、岡本太郎選抜画家特集でオチオサムの《花火の好きな子供》と《マンボの好きな子供》に感銘を受けた。オチオサムと地元福岡で遭遇した桜井孝身は、黒木耀治や石橋泰幸も誘い、福岡県庁外壁に絵画を並べ「ペルソナ展」(1956年)を開催する。
桜井孝身の西日本新聞社の後輩・俣野衛は「母音」や「九州詩人」の同人で理論家であり、詩誌編集の経験からグループ結成について助言した。1957年7月に「九州派」が誕生、同年8月には岩田屋百貨店7階特設会場で旗揚げ展「グループQ18人展」が開催された。
印刷会社に勤めていたオチオサムがレタッチの過程で使用するアスファルトの生々しい黒と速乾性に着目、画材・接着剤として利用すると、アスファルトの黒は「九州派」のシンボルとなった。アスファルトを塗布した提灯など、オチオサムは簾・襖など日用品を素材にいち早くオブジェを手掛けた。
1957年11月には福岡県庁西側大通壁面を用いて「グループQ・詩科 アンフォルメル野外展」を開催。菊畑茂久馬がアスファルトを用い金網を被せた《鶏小屋》をリヤカーで運び展示。オチオサムの発案で胸にQと記した麻袋を被り石油缶を叩きながら練り歩き展覧会を宣伝した。
1958年2月、3000号の作品が「第10回読売アンデパンダン展」で出品拒否に遭った「九州派」は、前衛の場を設けるべく、同年4月、西日本新聞社講堂を会場に「九州アンデパンダン展」を手弁当で開催した(第2回は1959年5月に西日本新聞社講堂で、第3回は1960年6月に八幡市美術工芸館で開催し、幕を閉じる)。同年8月にはTV局取材のために警固公園で巨大絵画を箒を絵筆にして公開制作した。
1959年の「第3回九州派グループ展」(銀座画廊)にオチオサムは《空クジナシ》(無柄の襖にデッサンした紙を貼った作品)を出展。中原祐介から「どのような意味づけも拒否する」「反モダンアートという主張を最もよく具体化している作家」と評される。
「反画壇」の姿勢を取り、県展に審査方法の抗議書を提出する一方、メンバーによる二科展や県展への出品は続いていた。菊畑茂久馬など前衛的な美術を志すメンバーと他のメンバーらとの間の亀裂は次第に拡大する。1959年には、二科展所属の寺田健一郎が離れ、磨墨静量は斎藤秀三郎らと「グループ西日本」を結成して袂を分かち、菊畑茂久馬もオチオサムと山内重太郎とともに「洞窟派」として独立した。
理論的支柱であった俣野衛も退会した1960年にはグループ展は開催されず、機関誌も発行されなかった。メンバーは個々に活動する。
1960年の「第10回読売アンデパンダン展」は、「九州派」や「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」などグループ参加が目立ち、針生一郎は邪道と非難。東野芳明工藤哲巳の作品を「反芸術」と評し、前衛を表す言葉として定着した。
「洞窟派」は1回しか展覧会を開かず解体し、菊畑茂久馬とオチオサムが「九州派」に復帰した。桜井孝身は「グループ西日本」から谷口利夫と働正を引き抜く。
1961年、国立近代美術館「現代美術の実験」展に菊畑茂久馬《奴隷系図《貨幣)》とオチオサム《作品》を出品。銀座画廊で開催された「九州派展」では芝居の地方巡業ポスターを模して「東京地方突如来演」のポスターや「九州派」の湯飲みを制作。オチオサム《題不詳》は煙草の吸殻を詰めた水槽に水をかけ、時間の要素を導入した。
《人工胎盤》を制作した岡部光子は機関誌『九州派 5』に「人工胎盤ができたら、始めて女性は、本質的に解放されるんだけど」とコメントしている。
1962年、オチオサムは「現代美術の実験」展の謝礼が少額であったことに絶望、サルトルの戯曲を冠した《出口ナシ》を「第14回読売アンデパンダン展」に出品して制作から離れた。同年11月、桜井孝身は「九州派」の起死回生を図り「英雄たちの大集会」を百道海水浴場で開催した。
1963年、新天会館で開催された「九州派展」で働正は、鑑賞者を巻き込もうと、包帯を全身に巻いて佇むパフォーマンスを行う。
1965年の「10周年記念九州派」(福岡県文化会館)が最後の九州派展となる。渡米した桜井孝身に代わりグループを率いた尾張猛の提案で解散が決議された。

三井三池争議に象徴される、「エネルギー革命」の時代、福岡で興った前衛美術運動集団「九州派」。ガソリンで走る自動車の普及により道路は舗装されていく。地面(大地)を覆い始めたアスファルトは石油由来だ。オチオサムの発案で「九州派」の作家たちが制作に用いたアスファルトの生々しい黒は、石油によって切り捨てられる側の石炭、そして炭鉱労働者のイメージが重ねられている。対立するものが生み出す火花、その火花をも呑み込む底知れぬ闇の禍々しさに自分たちの表現欲求を重ね合せたのだろう。九州派の作品はほとんど残存しておらず、モノクロームの写真図版などで振り返る他無い。
菊畑茂久馬の《奴隷系図(貨幣)》の丸太は石炭の元となったシダ植物を、周囲に散蒔かれた5円玉は石油の元であるプランクトンを連想させる。オチオサムが水槽に煙草の吸殻を詰めた作品《題不詳》は燃え尽きた炭鉱労働者であり三井三池争議の組合側の敗北を象徴するようだ。岡部光子はイオナ・ズール(Ionat Zurr)が生まれる前に《人工胎盤》を美術作品として提示していた。オチオサムの《出口ナシ》は2枚の黒い板により坑道の閉鎖を暗示する。働正の木乃伊のようなパフォ-マンスは、オチオサムの煙草の吸殻に通じる、体制に虐げられる炭鉱労働者の姿だろう。
本展では控え目に提示されていた、抑圧のされた性の解放も九州派の主要なテーマだったようだ。福岡県で活動しながら九州を冠したのは、高千穂などを包含することで、性に大らかな神話の世界を組み込む意図があったのであろうか。