可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 北村早紀・石場文子二人展『やま あるいはその他のABC』

展覧会『北村早紀・石場文子「やま あるいはその他のABC」』
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2025年6月21日~7月6日。

広義の「やま」から連想される言葉を元に制作された、古写真と山での写真とを合成した上に木版表現を重ねる北村早紀と、写真を素材にイメージの平面性を再認識させる石場文子との作品を併せ見る企画。「隙間」、「それは気のせいではない」、「隠れる」、「見えているもの/見えていないもの」、「移り変わるもの」などのキーワードが鑑賞の手掛かりとして与えられる。

 山を見ると言うとき、ふつうわたしたちは、目をとめて山の様子を知るといった行為を想定する。ところが、原始的な心性においては、見ることは呪的な意味でもっと積極的な行為だったようだ。
 白川静氏は次のように言う。「古代においては『見る』という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである」。ここで「内的交渉」とは、「対象のもつ生命力と同化し、これを自己に吸収する」こと、すなわち「魂振り」だと言う。原始的な心性においては、自然現象は霊威によってなるものであり、自然物を見ることとは、相手に霊威を認めて、その霊力をわが身に取り込み、自らの生命力を高めることであった。
 それなら、尖鋭的なものの尖端、あるいは自然界には稀な抽象図形のような明快な形態にわたしたちがおのずと注目してしまう、おのずと目が向く、目を引かれるという状況は、原始的な心性においてはどのような意味をもつのだろうか。
 この場合、本来こちら側で制御するはずの見るという行為を制御できないということだから、対象の側の強い力をそこに認めることになる。ここに、目が引きつけられるという状況には、相手側の強力な霊意、つまり神概念を介在させる理由が生まれる。わたしたちが自発的に見るのではなく、神の威力によって見させられるのだ。(齋藤潮『名山へのまなざし』講談社講談社現代新書〕/2006/p.104-105)

北村早紀《TOKO-YO(Crevice)》は雲のかかる高峰をいくつかの山稜越しに捉えた褐色の写真に、不定形の形が淡い水色やオレンジなどの版画により重ねられている。右側に配されるのは、腕を頭の後ろで組んで横たわる人物が稜線に横たわる姿である。中央にも頭を下げて横たわる人物らしきイメージが見えてくる。山の端をハンモックに見立てる想像力が、現実に裂け目を入れ、神々を召喚する。あるいは作家が対象の側の強力な霊威を感じ取ったのである。北村早紀《TOKO-YO(Picnic)》は、峰附近の層状の岩肌の写真にピクニックする人々の写真を重ね、さらに緑や黄の輪郭線でピクニックする人々と同様のイメージを前面に表わした作品。山頂は常世であり、訪れた人々が祖先の霊と交流を果たすのだ。

石場文子《untitled(デコポン)》は、濃い緑色を壁から台の上に垂らした上にデコポンを3つ盛った白い皿と、デコポンの果汁を入れた透明のガラス壜とを捉えた、静物画の趣の写真。個々のデコポンとガラス壜には、それぞれ黒い線、白い線が描き入れられた上で、恰も絵画の輪郭線のように撮影されている。因みに石場文子《Time elapses(four apples)_Point A》で赤い水玉模様のテーブルクロスに載せられた4つの赤い林檎は、石場文子《Time elapses(four apples)_Point B》では1つがグラスに入れられた林檎果汁へと取り替えられている。果汁だけでは林檎の認識は得られまい。赤い丸い果実に果梗があって林檎と認識できるのだ。もとい、デコポンもまた果梗附近のボコッと膨らんでいるからこそデコポンと認識しうる。膨らみは峰、すなわちヤマである。

石場文子《Blend into the surface(生物/外側》は、茶・白・青の抽象的なデザインの布を全面に配し、瓜、蕪、葱、大蒜、3種のガラス製花瓶を配した作品。野菜に黒の、花瓶の茶の線を直接描き込み、輪郭線として機能するような視角で撮影されている。《untitled(デコポン)》では白い壁が一部見えるよう緑の布が外されてあり、壁が台を挟んで奥に位置することが明瞭であったが、《Blend into the surface(生物/外側》では布が全面を覆うことで壁と台との境目が曖昧になり、より平板な描写となっている。本来、写真という平面に立体感を捉えてしまう習性を逆手に取った作品である。《Blend into the surface(生物/中》では、半分に切断された野菜の切断面が見せられている。とりわけ陰影を失った瓜と蕪は平板に見える。立ち現われるのは、個々のモティーフの正面性である。作家は一点透視図法、すなわち一神教的世界観を否定し、八百万の神の、複数の視座を起ち上げていると考えられる。

北村早紀《TOKO-YO(Triangle)》は賑わうレストランで食事をする女性を捉えた写真に、山岳風景の写真を重ね、さらに写真の女性に黄色い三角形を版画で重ねた作品である。レストランでは、女性以外にも沢山の客が食事を楽しんでいる。人々の姿は連峰である。一番手前に存在する女性は連山を従えるように立つ、陽光を受ける山なのだろう。北村早紀《TOKO-YO(Her)》では写真の女性の頭部に山肌が露出した斜面を持つ山のイメージが重ねられ、なおかつ黄色く太い描線で彼女の輪郭線を4つずらして重ねてあり、山が動くイメージを生み出している。地質学的な時間感覚で眺めるとき、世界は流体としての姿を現わす。そのスケール感は、神話的想像力に通じる。

 白川氏は、「見がほし」〔引用者註:心が惹かれて見たく思う〕という衝動を「地霊の誘い」によるものだと述べている。
 古くは、尖鋭なるもの、明瞭なかたちをなすものにおのずと目が向き、また見たいと思う信条が起こるのは、自分自身の側ではなく、そのような特徴を備えた対象の側の問題とみなした、ということだろう。
 さらに、神の坐す山岳が単に見えるということではなく、それがもっとも人目を引きつける力を発揮するように見える場所こそが、神を祭祀する根拠とみなされたということを、ここに、あらためて確認することができる。(齋藤潮『名山へのまなざし』講談社講談社現代新書〕/2006/p.107)

北村早紀《TOKO-YO(Be hidden)》は、左右手前に立つ2本の樹木を額縁に、大きな荷物を背負って斜面を登る姿を遠景に捉えた写真。額縁に対する関心は、森の景観を捉えた写真に額縁のようなイメージを版画で挿入した北村早紀《TOKO-YO(Frame)》にも明らかだ。樹木にはピンクや青の描線が版画で重ねられている。額縁とはフレーミングである。「もっとも人目を引きつける力を発揮するように見える場所」を切り取るものである。ところで、山というと三角形の山容が思い浮かぶが、《TOKO-YO(Be hidden)》においては山は斜線へと変じる。樹影をなぞる描線は、対象に対する固定観念が輪郭に集約されることを浮き彫りにするものでもある。台形の富士が登場しない、冨嶽三十六景《諸人登山》を髣髴とさせる。

 (略)〔引用者補記:アンリ・マティスの〕《赤い室内、青いテーブルの上の生物》は、窓外の風景と室内の壁、そしてメダルとテーブルという、わずかな要素で構成されている。室内やテーブルの平坦な色面に対し、そうがいの木々と花瓶に生けられた植物の葉は細かな筆触で表現されており、その対比がマチエールを豊かなものにしている。しかし何よりこの作品を際立たせているのは、画面を斜めに走る大胆な黒のジグザグ線にほかならない。この線は画面にリズムと躍動感を与えながら、ともすればバラバラになってしまいそうなモチーフを1つにまとめあげている。(横山由季子「彩られたデッサン マティスの色彩とフォルム」『ユリイカ』第53巻第5号/2021/p.139)

石場文子《Time elapses(窓際の花瓶)_12:12》・《Time elapses(窓際の花瓶)_5:16》は、窓台に置かれた、青い花を活けた花瓶を撮影した写真。ヒシワイヤの窓ガラス、開かれた窓から覗く面格子、花瓶を載せた縞模様のクロスには、斜め格子、間隔の広い縦縞、間隔の密な縦縞と異なる。恰も3種の線によって屋内、屋外、窓ガラスが描き分けた版画を連想させる。同時に、肥痩・明度の異なる縦縞により内外を繋ぎ合せもするのである。恰もアンリ・マティスの《赤い室内、青いテーブルの上の生物》のジグザグ線のように。さらに屋外の明るさによって花瓶に活けた花の現われが異なる。それは山の姿にも通じよう。

北村早紀の《TOKO-YO(Triangle)》・《TOKO-YO(Be hidden)》及び、石場文子の《Time elapses(窓際の花瓶)_12:12》・《Time elapses(窓際の花瓶)_5:16》は接して並べられている。《TOKO-YO(Triangle)》の山に向かって《TOKO-YO(Be hidden)》の登山客が斜面を進む。《Time elapses(窓際の花瓶)_12:12》・《Time elapses(窓際の花瓶)_5:16》によって、登山者の眼に映る山の景観の変化を表現する。

 (略)〔引用者補記:アンリ・マティスの〕《大きな赤い室内〕も全体としては赤が主調であるが、さまざまなモティーフが黒いアラベスクに縁取られて浮かび上がる。画面の下半分には、曲線的な脚をもつテーブルや花瓶などがランダムに置かれており、上半分では、2点の大きな画中画が構図を引き締めている。先ほど〔引用者註:《赤い室内、青いテーブルの上の生物》〕の窓外の描写とは異なり、これらの画中画は室内の他のモティーフとまったく同じトーンで塗られており、断絶なく画面のなかに溶け込んでいる。この時期のマティスが友人の作家に宛てて「私は〝正面視〟と言いたいのですが、それぞれの物は色彩の不思議な関係によって生み出された雰囲気のなかで私の感情によって相互に結びつけられ、ほとんど互いに近づき合っています」と書き送った通り、両者に共通する、塗りムラや筆の跡を残すニュアンスに富んだ薄塗りの色面が、画面に永遠のみずみずしさを与えている。そして、最初は明快な構図と平坦な色面が目に飛び込んでくるが、しばらく眺めていると、揺らぎのある色面や、鮮やかな色彩の共鳴のうちに、色彩の空間製とでもいうべき奥行きが、知覚されるのである。(横山由季子「彩られたデッサン マティスの色彩とフォルム」『ユリイカ』第53巻第5号/2021/p.139)

石場文子が明らかにするように、平面に立体を見る能力が私たちに備わるなら、現実空間に四次元を見出すことも可能であろう。実際、北村早紀は、現実に裂け目を入れることで、異なる時間を召喚して見せるのである。