展覧会 新田享一・飯田めぐみ二人展『near AND far』
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2025年7月12日~21日。
描画したキャンヴァスに折り目や襞を付けることで視界から閉ざされるイメージと現われてしまうイメージとを両立させる新田享一と、風景に感情を載せる表現を追究することで却って普遍的な光景を起ち上げることを目論む飯田めぐみとの二人展。
【新田享一】
《curtain》(1300mm×1167mm)は、複数の人物の頭部を描いた画布を折って襞を作り、下端を固定せずに垂らした作品。襞を作るために意図的に折り目が入れられ、なおかつ垂直とともに斜めに折られている。右端は鼻や口などを描いたのであろうか、顔が大写しに描かれているようで、垂直方向に柔らかく折り曲げられカーテン状にされている。左側には女性の顔が斜めに折られた画布と画布の間から覗いている。彼女の顔を隠す手前側の画布には髪の毛や耳などのイメージが描かれている。
《running horse》(340mm×730mm)は左から右へと駆ける白馬をモノクロームで表わした作品。横長の画面は、異なる感覚で織り込まれて白馬が異時同図的に重なり、中央付近の騎乗の人物の静的イメージとは対照的に、尾、脚、頭などが増殖するように見える。エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)の疾駆する馬の連続写真が意図されていることは明らかだ。運動や時間を折り畳んでいる。
《slow》(242mm×333mm)は、男性の顔と別の人物の姿か何かが描かれた画布の間から
女性の左眼、花、唇、顎が覗く作品。斜めに織り込まれた線が、男性の俯く動作を強調するとともに、鬱屈や屈折といった感情を喚起する。男性の閉じた目は、女性の開いた左眼と対照的である。彼女の目には、襞の奥に隠されていること、また、絵画の背景の青と相俟って、深い湖のような深みを覚える。レオン・スピリアールト(Léon Spilliaert)に通じるものがある。
《two men》(410mm×318mm)はモノクロームで男性の顔が向き合うように描かれた画布の間から、赤い得体の知れない何かが覗く作品。横向きの男性同士の顔の半分が折れて見えなくなっているが、そのせいで男性同士のキスのイメージが喚起される。折ることは切断でもあり、文字通り二人を切り裂いている。ならば、その切れ込みから覗くのは内臓であろう。フランシス・ベーコン(Francis Bacon)を連想させる、ねちっこさや禍々しさがある。
奥という表現は、万葉、伊勢物語、徒然草、そして江戸時代の歌舞伎に至るまで、日本人にとって特有な場所性の指示という形で我々の日常的空間体験の中に定着している。ここで興味あることは「奥」なる言葉が常に空間において奥行という概念を含みつつ使われていることである。一体奥行とは何を意味しているのであろうか。「奥行」なる概念は与えられた空間の中での相対的距離であり距離感である。他の民族にくらべてかなり高密度な社会を形成していた日本人にとって空間はより有限で、こまやかなものとして印象づけられてきたに違いない。その結果、限られた空間の中に遠近の差を相対的に設定するというデリケートな感覚が早くから芽生えていたのではなかったかと思われる。それでなければ「奥行」なる概念は説明し難いものであろう。たとえ100メートルの距離でも、あるいは10メートルの距離の中にも、相対的に「奥」を認識し、奥に至る道程を設定することによって、初めて重層化された空間のひだと、何故ひだをつくろうとするのかという日本人の空間感、大げさにいうならば、宇宙感を納得することができる。
と同時に、「奥」が「抽象的に奥深いこと。事が深淵で測りがたい」意味をもつことも理解されよう。ここで「奥」は空間のみならず、心の奥というかたちで心理的なものを表わすことにも使用されていることに注目しなければならない。(槇文彦「奥の思想」槇文彦『見えがくれする都市』鹿島出版会/1980/p.205-206)
襞は、限られた世界に深淵で測りがたい距離を生み出す技術である。
【飯田めぐみ】
《after》(727mm×910mm)は、夕闇が迫る浜辺の景観を描く作品。下半分に茶色い浜、上半分に水色や薄紫で暮れゆく空を配する。左奥には海面と突堤が覗く。面手前の中央には左側の海を眺める女性の上半身を表わし、他にも何人かの人影が見える。右手奥には建物なども並ぶ。印象的なのは、人物が浜辺や空の色を映したように同じ色で表わされていることだ。人物は風景に文字通り溶け込んでいる。人物が風景を眺めることができるのは、その光を浴びているからである。そのとき人物は鏡に等しい。そこに神が宿る。
触れるというのは、触れるものではない触れられるものとその隔たりのなかで、はじめてそれとして生起する。その触れるものが触れられるものによって触れられるというのは、触れるものが触れられるもののあいだに位置をもつということである。ということは触れるものはつねに同時に触れられるものであるということである。触れられるものどうしの触れあいとして触覚は起こるわけだ。いいえかえると、触れるということは、触れるものが触れられるものであるということを裏面としてもつわけで、そのかぎりで可逆性が触れることを可能にしているのである。
おなじことは見ることについてもいえる。触れるものが、触れられるものであるということを裏面としてもつように、見るものは見えるものでもあるということを裏面にもつ。(鷲田清一『現代思想の冒険者たち Select メルロ=ポンティ―可逆性』講談社/2003/268-269)
《風景》(1455mm×530mm)には、手前の道を右から左へと走る白い車、やや高い位置にある舗道と立ち並ぶ街路樹、その先には広い空の下に屋敷林などが点在する郊外の景観が広がる。道路、街路樹、屋敷林などはいずれも境界に関わる。その意味では、陸水と天地という2つの境界を描いた《after》に通じる。此岸と彼岸とは常に接しているのである。
《ホ11-1-》(455mm×530mm)は、航行するプレジャーボートをそのアフトデッキからコックピットを、いくつかの色面で捉えるように抽象的に表わした作品である。アフトデッキには屋根がかかり、陽光に照らされたコックピットの眩しさが引き立つ。奥には海の拡がりと、近くにある岩壁とが見渡せる。興味深いのは画題「ホ11-1-」である。「ボート」という文字が分解されている。文字の分解は絵画の抽象化と軌を一にしている。描線を面へと拡張するのは曖昧さや隙間を画面に取り入れるためである。それは波が寄せては返す浜辺、干満によって陸にも海にもなる海岸の境界という性格に通じよう。作家は、開くことによって、作品に得体の知れない何かが入り込むことを狙っているのである。言わば、依代としての絵画である。
折り畳むことで深淵を覗く新田享一と、開くことで降神を期する飯田めぐみ。どちらも「おり・がみ」の作家と言えよう。