可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 平松麻個展『Inner Existence』

展覧会『平松麻「Inner Existence」』を鑑賞しての備忘録
104GALERIEにて、2025年7月12日~8月23日。

平松麻の絵画展。

《IN/OUT 03 <Wind>》(530mm×450mm)の深緑と緑とで左右を塗り分けた画面中心やや左寄りには縦に朱線が引かれている。その線は画面上部の途中から始まり画面下端に到達する前に途切れる。朱線に添って左側は暗く、右側は明るい。遠目には画面に切れ込みが入れられているように見える。鎌倉時代宮内卿は千五百番歌合で「うすき濃き野辺のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむら消え」と詠み、草の色の濃淡から雪の深浅を連想させた、後鳥羽院に見込まれたホープが新風を吹き込んだエピソードが、本作のイメージと画題から連想された。
《水平線》(800mm×1000mm)は、黄土色の画面の中央に恰も疵痕のような闇が水平方向に延びる。画面下部には画布を鋭利な刃物で切り裂いたような直線が表される。画面下端には暗い闇を覗かせる方形の穴がある。「水平線」と題されているが、中央の「疵痕」は、空と海を分かつ線というより、渾然一体とした世界が天と地とに裂かれるようなイメージである。また、画面下部で画布の切り裂きを擬態する線は、海と空とであろうと天と地とであろうと水平線という線が存在しないこと、フィクションであることを露わにする。なぜフィクションが必要なのか。画面下端の方形の闇はパンドラの箱あるいは宇宙の起源であり、人は全てが混沌であり空[くう]である世界を切り分けることで理解しようとするからだ。水平線[horizon]とは、人間の限定された認識のあり方[horizon]に他ならない。横に走る闇によって対象=世界を表す《水平線》に対して、暗い部屋[camera obscura]の壁の隙間から世界を覗く眼鏡の男を捉えた《Inner Child》(330mm×450mm)は認識=主観の側を描く作品である。直立二足歩行する人間と「縦」に走る「光」が好対照をなす。
《Seesaw》(970mm×1450mm)には、曇り空に覆われた大地が地平線まで拡がる中、支柱に支えられた木の板、シーソーが前景に描かれる。シーソーの板は左側に傾き、持ち上げられた右端は地平線の近くに位置する。シーソーの傾きは左側の板の上に漂う雲のためだ。雲が板に影を作り、地面に近付いた左側の板が右側の板よりも地面の影を濃くする。ルネ・マグリット[René Magritte]は《ピレネーの城[Le Château des Pyrénées]》で海の上に浮かぶ城のある巨岩を描いたが、岩石ほどではないにせよ、雲も水でできていて相当のな重さがある。宙空に浮かぶプールを想像することで、日常的な景観は《ピレネーの城》並に不思議な相貌を見せる。そんな視点の転換を促すスイッチのような作品である。
表題作《Inner Existence <A man 02>》(910mm×650mm)は、黄土色の壁に立て掛けた、酒瓶と雨樋の集水器らしきものと木製の椅子の脚のようなものを組み合わせたオブジェを描いた作品。酒瓶は頭部・首・肩、「集水器」は胴、「椅子の脚」は脚のように、オブジェは人に見える。ガラクタのオブジェは壁に寄り掛かっている。ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット[William Henry Fox Talbot]の写真集『自然の鉛筆[The Pencil of Nature]』所収の《開かれたドア[The Open Door]》に映る立て掛けられた箒を思わせる。もっとも、本作品には壁だけがあり、窓や扉がない。だからこそ内なる存在[inner existence]なのだ。そして、オブジェ=人間は壁に凭れている。萬鉄五郎の《もたれて立つ人》が連想される。《もたれて立つ人》の女性が脚で作っていた、身体を支える三角形は、 本作では棒と壁と床にできた影とで作られている。オブジェは実体ではなくイメージによって支えられているのだ。壁は絵画のメタファーであることも考え合わせれば、絵画=イメージに凭れて立つ人、すなわち画家の象徴であることが分かる。画家としての矜持を示す作品と言えよう。