可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 飯島暉子・安原千夏二人展『マジックアワー』

展覧会『飯島暉子・安原千夏「マジックアワー」』を鑑賞しての備忘録
横浜市民ギャラリーあざみ野にて、2025年8月13日~2025年8月24日。

飯島暉子と安原千夏の二人展。

安原千夏
《Accordion time》は日常的な景観を捉えた写真に言葉を添えてスライドショーのように仕立てた映像作品。あるイメージは瞬間映し出されると、次のイメージへと切り替わり、さらに次のイメージへと移っていく。網膜に映ったイメージは電気信号に変換されて脳に送られる。脳には膨大なイメージが記憶されているが、ふと思い出すものもあれば、思い出そうとしても思い出せないものもある。アコーディオンを演奏する際に伸縮させる蛇腹のふいごの形を意識しないように、イメージは予期せず姿を現わしたり消したりするのである。
《See Saw 2021/2025》は靴底にカメラを取り付けて歩いた街の景観を編集した動画作品。足の付けたカメラにより、日常的に意識に上らず目にしている景観を露わにするとともに、揺れ動く映像が静止画ではなく動画こそが人間の認識を形作っていることを浮き彫りにする。タイトルは、歩行の際に左右の足それぞれ取り付けたカメラが交互に上がる点でシーソーのようであること、また、見る[see]ことが見た[saw]ことへと常に移り変わっていくことを表わすのだろう。
「contact」シリーズは、映画の登場人物をモニター越しに撮影し、その瞳を拡大してシルクスクリーンで印刷した作品。画素へと分解された抽象度の高いイメージである。鑑賞者は登場人物を見ていても、対象となる人物の瞳に鑑賞者の姿が映ることはない。お互いに一方通行的な視線が交わることは無い。もっとも、現在、眼に映る世界の少なくない割合を占めるのはディスプレイの映像であり、視線の一方通行は半ば常態である。
「あなたへの光る手紙」シリーズは、映画で映し出された手紙をモニター越しに撮り、その文面をシルクスクリーンで印刷した作品。名宛人とはならない鑑賞者に届く手紙は、一種の誤配である。
《偶然の粒》は、上皿天秤の一方の皿にベッドの写真、片方だけのピアスなどを、他方の皿に浜辺で拾った貝殻とパチンコ玉を載せた作品。手元に残ったものにより構成される皿は、失われたものの分だけ軽くなっている。失われた世界の構成要素は、漂着する何かにより常に埋め合わされていく。動的平衡、すなわち生物である人間の姿である。

飯島暉子
《Memorial Ground》は森の中で撮影された写真をカラーコピーし、得られたイメージをコピーする作業を600回近く繰り返すことで生まれた600枚近くの異なるイメージを展示室の壁面に隙間無く貼り付けた作品。木々と地面の景観はいつしかオレンジと緑とで構成される面となり、さらには砂のような微細な記号が波に打ち寄せた浜辺のようなイメージへと変遷する。桑田変じて滄海となる社会の変化を象徴するかのようだ。コピーで埋め尽くした壁面に現われたイメージは、コピーを繰り返すことで現われたイメージの似姿となっている。それは細胞の生死と個体の生死、さらには種の存亡という生命のサイクルのアナロジーでもある。
「(Cosmic) dust」シリーズは街中で撮影したイメージを布に印刷してハンガーラックに吊り下げた作品。壁面に掛けられる(額装された)写真が平面であるのと異なり、吊り下げられて撓む布に現われた写真は物質性を帯びる。のみならず作家はハンガーラックに吊すことで掛け替えられる行為の反復を見ている。ならば構成要素を変えながら全体の構造を維持する動的平衡を認め、生物としての人間の似姿を認めても良い。
「しわを追う」シリーズは梱包に用いられた新聞紙の皺を色鉛筆で着彩したもの。新聞紙がプリズムとなって光のスペクトラムを現出させるかのようである。生命が光のエネルギーに依存している事実を浮き彫りにする作品とも言い得る。
《船》はハンガーラックの梱包に用いられていた段ボールを力を加えて整形し、重ねることで船を造型した作品である。ノアの箱船に擬えて生命ないし種の存続を見ることも、精霊船と見て霊の彼岸への送り出しと解することもできる。船と生命との結び付きは強く、生物個体自体が生命を運ぶ船とも言える。

飯島暉子と安原千夏との企画による「そぞろ歩き」なる企画が同時に別室で開催される。中心となるのは、中華料理店での2人の作家の会話をもとにした戯曲が、複数の作家から寄せられたコメントを受けて書き直された上で演じられた映像作品である。墓に近隣の別人の骨が納められていたというエピソードが中心となる。誤配、エラーは、生命の複製における不可避の現象であり、生命の多様性もまたそれに負っている。生命をテーマにした作品と言える。また、記憶を継承する墓は、国民を統合する国家の物語=歴史のメタファーであり、フィクションのリアリティについて考えさせる作品でもある。

生命は変化するという点で時間に等しい。生命=時間の廻りをそぞろ歩く企画と言えよう。