可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 佐藤T個展『灰になっても』

展覧会『佐藤T個展「灰になっても」』を鑑賞しての備忘録
八犬堂ギャラリーにて、2025年8月23日~30日。

血を思わせる涙や飛沫、何者かの影、傾いた構図などにより不穏な雰囲気を纏う絵画で構成される、佐藤Tの個展。

アクリルガッシュと色鉛筆による《夢想》(420mm×297mm)は、薄汚れた青い壁を背に胸の辺りで一輪の白い花を手に立つ女性を真正面から捉えた作品。壁の色に近い水色のノースリーブのワンピースの腰の辺りまでが描かれる。壁とワンピースの裾とはともに飛沫で汚れている。彼女は壁と一体化する、所謂"wallflower"であり、相手にされない人だ。薄暗い空間に佇む彼女は左前方からの光を浴びる。手にした白い花が一際輝く。それは彼女自身ではなく、彼女を相手にしない誰かの象徴であるかもしれない。彼女は右手と左手とで茎を曲げるように摘まむ。茎には血が垂れる。正面を見据える彼女の目もまた充血している。誰かを傷つけたいという妄念であろうか、あるいは希望の断念であろうか。
アクリルガッシュと色鉛筆による《灰になっても》(530mm×420mm)には壁際に坐る、(作家の描く女性像には極めて珍しい)白いワンピースを身につけた女性を左斜め上方から捉えた作品。暗い空間で、フラッシュを焚いたように、上からの光を浴びた彼女は、床に拡がった襞のあるロングスカートを右手で押え、左手は黒い涙で汚れた頬に当てている。汚れた指で触れたためか服にも黒い筋の跡が残る。日陰の存在、画題の「灰」から想像されるのは、灰かぶり[Cinderella]である。彼女は窮屈な部屋から逃れることはできるのか。ところで、白い襞付きのスカートの拡がりが《夢想》に登場する白い花を思わせることから、《夢想》はシンデレラになる夢が破れたものと解することもできそうだ。

《夢想》や《灰になっても》だけでなく、アクリルガッシュを用いた絵画では、飛沫が画面に散らされる。《カーテンの向こう》(410mm×318mm)では、ベランダに出てしゃがみ込む女性の背後、部屋の窓に血飛沫がかかる。《秘密の遊び》(318mm×410mm)では地下駐車場のような場所に坐る女性が身に付けるレインコートや敷いているビニールシート、その上に置かれたクーラーバッグなどがオレンジ色の飛沫で汚れている。ロープを肩に掛け、レジ袋の荷物を左手に持つ女性が古いアパルトマンの階段を登る《片付け》(455mm×380mm)では、彼女のかぶる帽子や建物に飛沫が見られる。《B計画》(333mm×242mm)では空き地に立つ女性の傍の工事現場の仮囲いや草叢にピンクの飛沫が散る。飛沫は、その色に拘わらず、塗料ではなく血を想わせる。

鉛筆画《連れてって》(297mm×210mm)は女性が逆様になった上半身像で、何者かの手が下から伸びて彼女の髪にかかる。Tシャツの袖の皺が、髪に伸ばされた手の皺と呼応する。その手は、画面から切れて見えない彼女自身の手なのかもしれない。シャルル=ピエール・ボードレール[Charles-Pierre Baudelaire]の"Anywhere out of the world"よろしく、この世から連れ出して欲しいという願望が訴えられる。ところで彼女の頭部が画面の縦に平行なのに対し、彼女の身体は斜めに配される。閉所で鋏を置いた台に左手を突いて佇む女性を表わす鉛筆画《迷い》(210mm×148mm)でも、両手で鼻や口を覆って坐る女性を描くペン画《失くす》(140mm×90mm)でも、女性の身体が斜めに配される。斜めの構図の不安定さも不穏な原因の1つである。

鉛筆画《目を逸らさない》(277mm×93mm)では縦長の画面に、顔を覆う手の指の隙間から覗く女性が表わされるが、腕や脚が曲げられるとともに、彼女の右肘や左足の先が画面から切れることでより窮屈な印象が高められる。彼女が身を横たえる「く」の字の床は恰も換気ダクトの中のようだ。江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」的な窃視の快楽を味わっているようにも見える。

ペン画《迎え》(140mm×90mm)には、キャミソール姿の女性の脇の戸口にボウリングのピンのような影、否、光が覗く。エイリアンが現われたらしい(因みに割れた鏡に映ったためか、3つに割れた頭部の女性を描いた鉛筆画《傷》(210mm×148mm)は、『トイ・ストーリー[Toy Story]』のエイリアンのようだ)。ペン画《後ろにいる人》(140mm×90mm)では怯えた女性が背後を振り返るが、壁に映るのは彼女自身の影のようでもある。恐ろしい存在とは人間に他ならず、裏切るのは残念ながら往々にして自分自身である。