可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 萩原亜美個展『Dissolution of Boundaries』

展覧会『萩原亜美「Dissolution of Boundaries」』を鑑賞しての備忘録
REIJINSHA GALLERYにて、2025年8月22日~9月5日。

洋画を1つのイメージで、あるいは漫画の齣のように複数のイメージで提示するような絵画で構成される、萩原亜美の個展。

《Uncleared Table》(158mm×227mm)は卓上の銀のトレイに載せられたグラスや丸められた紙ナプキンなどを描く作品。茶色いグラスが3つ、水のグラスストローとスプーンが入ったアイスクリームフロートの背の高いグラスが2つ、背の低いデザートグラスが1つ、シロップのグラスが1つ。他に紙ナプキンが丸められて置かれている。背後の右側クリーム色の壁、左側には窓越しに夜景が見る。既にテーブルを離れた3人がどのような人物だったかが想像される。
《The Hand》(242mm×333mm)では卓を囲んでカードに興じる3人の姿を、卓上だけを切り取って提示する。板を組み合わせたテーブルの直線に対し、グラスや紙コップの口縁や底及びそれらの影の円、そしてそれらの円を3人が手にする拡げられたカードの扇形が繋ぎ、ゲームの進行するリズムを生み出している。因みに複数の手が描かれているのにタイトルは"The Hand"と単数形なのは「一勝負」だからであろう。《One Last Toast》(242mm×333mm)でも7人がワインで乾杯する場面を、それぞれのグラスと手の部分だけを切り取って提示している。

《I'll always be with you》(227mm×158mm)には住宅の中の階段の下にいる犬の姿を描いた作品。階段の下に腹這いになり階上を見上げる犬は水色で輪郭だけを描き半透明に表わされる。近くに赤いボールが落ちているのに見向きもしないのは、主人を慕って存在し続ける飼い犬の霊だからだろう。

《The Fall of Icarus》(606mm×727mm)は、画面上段の山吹色の画面に赤い2本の直線を入れ、右上の太陽に向かって白い鳥が舞う姿を異時同図法で表わし、画面下段に闇の中で輝く誘蛾灯を描く。上段では翼を羽撃かせる鳥を白い絵具を盛ったV字など抽象的に表現する。赤い2本の線の左下から連続的に表現し、赤い線[redline](安全限界)を越え太陽に近くに達した鳥は翼を焦し、ほぼ垂直に落下する。画面下段には、光に寄ってきた虫を殺傷する誘蛾灯を表わすが、その光に青味を帯びさせてあることで、イカロスが落下した海を連想させもする。

《SILENCE》(727mm×606mm)は、黒い箱に突っ伏している女性、チェロなどの楽器と楽譜と楽団員、闇の3つの画面を上から下に並べた作品。黒い箱に左頬を下に頭を載せた女性のイメージは顔は暖色、身体は寒色で大まかな筆触により半ば抽象的に表わされる。暈かした表現は視覚から聴覚へと感覚を切り替えさせる。オーケストラのイメージも楽団員の黒い服の中に白い譜面と楽器の赤茶色が浮かぶ抽象的な表現が採用されている。闇のイメージは音楽への没入であり、眠りに落ちたことを表わす。
《The Singer》(455mm×380mm)は管楽器の楽団を背に歌う男性歌手を描いた作品。ステージの中央に立てられたマイクを前に歌う男性の顔は目の部分と口の部分、2つのタッチで塗り潰されている(映画祭で沿道の観客のサインに応じるハリウッドスターを描いた《Red Carpet》(242mm×410mm)では俳優の顔の辺りを靄のようなもので隠し鑑賞者に想像を促す)。彼の白い蝶ネクタイ、指先などは比較的丁寧に描き込まれているが、楽団員も山吹色のスーツとそれぞれの管楽器の輝きが分かる程度に抽象化されている。歌い手の白い蝶ネクタイのハイライト、その前のマイクに視線を集め、かつ歌手のイメージを曖昧にすることで、視覚から聴覚へと鑑賞者の注意を誘導するのである。

《Fort》(333mm×242mm)の画面上段には森の中の小屋を、画面下段には机に向かって構想を練る少年の姿が描かれる。針葉樹の森に簀の子や板を組みビニールを被せた小屋が立ち、中の灯りが漏れる。少々低い位置から小屋を見上げるように描いているのは少年の目線を表わすためだろう。入口付近には立ち入り禁止の看板が立つ。電話や時計とともに戦車の玩具や人形や図鑑、さらに缶ジュースやポテトチップスが散乱する机には、魚や昆虫など生き物に学び新たな計画の構想画が拡げられている。部屋を真上から見下ろす視点により少年の姿を微笑ましく見守る大人の存在が暗示される。

《In the Box》(333mm×242mm)は、燃え尽きて上がる煙を見詰める女性を画面左に、その女性の顔、燐寸に火を点けた手元、炎上げて燃える箱の3つの場面を右側に挿入した作品。金髪の女性はキャミソールにデニムのショートパンツを身に付け、ハイヒールのブーツを履いて、後ろに絵を組んで立ち、右下の燃え尽きた焚き火から上がる煙を眺めている。右側の上から3つの画面が配され、それぞれ目を瞑る女性の顔、右手に燐寸箱、左手に火の着いた燐寸を持った胸元、焔を上げる箱が描かれる。左側の女性の身体とともに、右側では女性の右目の青いアイシャドウ、胸元で輝くネックレスの青い石によって視線を下に誘導し、さらに炎が燃え尽きる展開が腑に落ちるようになっている。彼女のどんな思い出が灰になったのか。もっとも箱が姿を消したことは、彼女が囚われていた過去から解放されたことも暗示する。

《Temperature of the Borderline》(530mm×333mm)は、画面を3段に分割し、山吹色のバスローブを身につけて坐る女性、石の転がる草原の羊の群れ、煙草を手に酒を飲む男性の手元をそれぞれに表わした作品。上段には山吹色のバスローブを着た女性が太腿の上で手を組んで坐る姿を胸から膝までで切り取って表わす。中段には石がゴロゴロと転がる草原にいる羊たちが中央にある方形の坑の入口らしきものに群がる様が表わされる。下段には左手に火の着いた煙草を持ち右手でグラスを押える卓上の男の手が描かれる。羊は眠りのメタファーであり、眠れぬ男女の姿を表現したものとも考えられる。覚醒と入眠ならば《SILENCE》と通底する主題である。

《JUST VISITING》(227mm×158mm)は、檻の中の犬を見る男、夕陽の沈むのを窓越しに眺める女性とを上下に分割した画面のそれぞれに描く。大きなケージの前にしゃがみこんで男性が中にいる犬を見ている。犬が男に寄っている。夕陽を見詰める女性のいる室内には動物の骨格標本や肉の塊などが見える。さらにボードゲームモノポリー[Monopoly]」の"IN JAIL"と"JUST VISITING"のマスが挿入されている。モノポリーのマスのように刑務所の塀は線で描かれたフィクションに過ぎない。檻にいる動物を見る人間もまた環境に囚われた存在である点、骨と肉とで構成されている点で動物と何ら変わりはない。

《Paradise》(530mm×455mm)にはガラスケースの中で赤い実の生る木に留まる6羽の鳥と、そのケースの外に集まる10数羽の鳥とを描いた作品。ガラスケースには管から水が流されて底に水が張られ、ケースの外へ流れ出るようになっている。木は中央から枝を伸ばし箱の中一杯に枝を広げ、赤い実が鈴生りである。枝には赤や黄や青の鳥が留まるが赤い実を啄んではいない。また、お互いの鳥は、相笠昌義の描く群衆のように、視線を交わすことがない。ケースの外には赤い実を求めて多くの鳥が群れ集まるが、中に入ることはできず、ガラスにぶつかり命を落とす鳥もいる。豊かな世界を求めて移動する人たちの悲劇を描く、ジョン・スタインベック[John Steinbeck]の『怒りの葡萄[The Grapes of Wrath]』の世界に擬えられるのではないか。

《Keys》(410mm×318mm)は壁のフックに掛けられた鍵やキーホルダーだけを表わした作品。絵画を解く鍵は複数ある。