可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 加藤崇個展『やわらかくカタイ時間』

展覧会『加藤崇「やわらかくカタイ時間」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリイKにて、2026年6月15日~20日。

灰色の衣類を寄せ集めて身に着け、あるいはその山の陰に潜んだ自らを被写体にした写真「やわらかくカタイ時間」シリーズと、衣類の山を被った姿を撮影した写真と撮影に用いた衣類とを水槽に詰め込んだ立体作品「Case」シリーズとで構成される、加藤崇の個展。

《やわらかくカタイ時間》(800mm×920mm)は、墨色の空間で、セーターなど灰色の衣類を山のように組み上げた中に入り込んで坐り、左脚だけをのぞかせた作家自身の肖像写真。生地、織り方、色味を異にする灰色の衣類を折り重ね、山を起ち上げている。作家はその山に自らの姿を隠しつつ、手前の下に左脚を覗かせる。足が速いとは腐りやすいことを指す。老衰の謂ともなろうか。灰色の山は砂時計の堆積する砂に比せられる。布もまた綴られてく点で時間に擬えられることが多い。

《やわらかくカタイ時間》(φ575mm)は、球状(?)の硝子(?)の容器に沢山の灰色の衣類を押し込み溢れ出させたものを頭部として、自らの横向きの胸像を捉えた写真作品。画面中央に硝子(?)の容器の底が頭部のように配される。容器からは灰色の衣類が溢れ出し、垂れ下がる。硝子の容器の真下に作家の右肩、右腕が連なる。円形画面と腕とは時計の文字盤と針を連想させる。また、衣類に埋もれる作家の姿は、金魚鉢を連想させる容器と相俟って、潜水艇の舷窓のイメージを喚起する。本作が舷窓として展示室を潜水艇へと変じる。潜水艇とは沈潜する作家自身の似姿でもある。

《やわらかくカタイ時間》(585mm×645mm)は、灰色を中心に、水色や縞の衣類も取り混ぜたものを被った作家の右向きの上半身像。前に倒された頭部が中央上部に位置し、その中央にボタンが眼のように覗く。類例作品の《やわらかくカタイ時間》(635mm×585mm)では、作家は左向きに立ち、衣類は全て灰色であるが、ネックレスが垂れ下がる。
《Case》(245mm×315mm×160mm)は、水槽に格子柄の衣類を目一杯詰め込むとともに、それらの衣類などを身に付けて脚榻(?)の上に乗る作家を捉えた写真が底面に貼り付けた作品。《Case》(245mm×315mm×160mm)は、灰色の布とネックレスやコラージュを入れた水槽の底面に、布やネックレス、コラージュを身に付け蹲る作家の姿を捉えた写真を底面に嵌め込んだ作品。
ネックレスやコサージュは、ヴァニタスを連想させる。

《やわらかくカタイ時間》(770mm×940mm)は、灰色のシャツやパンツをぎゅうぎゅうに詰め込んだ、異なるサイズ・形のアクリルケース6つをを横に並べあるいは縦に積み重ね、その背後に身を隠すように坐る作家自身の姿を捉えた写真作品。畳まず押し込まれた衣類が透明のアクリルケース越しにごちゃごちゃとした表情を作る。背景は墨色で、なおかつ衣類は明るさを違えるもののいずれも灰色であるため、落ち着いた雰囲気を湛えている。左上と右下に作家の身体が覗く。左上はどこの部位かは分からないが灰色の衣類を着用した身体が丸く突き出す。右下には裸足の左足が出ている。衣類は人間の換喩である。そして生命とは時間であるなら、押し込まれた衣類は圧縮された時間である。そして、透明のアクリルケースがディスプレイのメタファーであるなら、モニター越しに圧縮した時間を生きる人間の姿を表現していると言えまいか。ミヒャエル・エンデ[Michael Ende]の『モモ[Momo oder Die seltsame Geschichte von den Zeit-Dieben und von dem Kind, das den Menschen die gestohlene Zeit zurückbrachte]』に登場する時間泥棒は灰色の衣装を身に纏う「灰色の男達[Die grauen Herren]」であった。作家は時間泥棒から身を隠しているのであろうか。