可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 蝸牛あや個展『ここにある光』

展覧会『蝸牛あや「ここにある光」』を鑑賞しての備忘録
メグミオギタギャラリーにて、2026年6月12日~7月4日。

絹布に絹糸による刺繍で構成される、蝸牛あやの個展。

冒頭には黒い絹布に金糸・絹糸で刺繍された1枚の金色の葉が舞う。《考古学者》(420mm×330mm)である。羽状脈の葉の金糸による主脈と側脈との間を金、紫、橙などの糸が埋める。上端で左に葉柄で右に曲がる僅かに歪んだ形はひらひらと舞うイメージを呼び起こす。恰も映画『フォレスト・ガンプ 一期一会[Forrest Gump]』(1994)の白い羽根のように、1枚の葉が物語をスタートさせる。実際、隣には《羽根》(275mm×220mm)が並ぶ。上の根元から下の先端へ向かい左に彎曲する1枚の羽根が闇に浮かび、次第に赤味を増していく。羽根は紅葉を擬態するかのようだ。羽は葉なのだ。《考古学者》で用いられるものよりも細い糸が用いられ、繊細かつ緻密である。翻って、何故枯葉に「考古学者」の名が与えられているのであろうか。考古学とは、ミシェル・フーコー[Michel Foucault]の考古学[Archéologie]ではないか。線的・通時的にではなく、派生的な事柄同士を交錯させることで物事を捉えようとする姿勢である。

 ミヒャエル・ハネケという映画監督が、71個の断片を組み合わせた自身の映画『71フラグメンツ』(タイトルが映画の手法をそのまま表わしている)についてのインタヴューで、20世紀後半に映画や文学が現実に迫れるとするなら、それは「断片」を通じてだけではないかと語っている。「全体を知っている」と臆面もなく主張するのは、「メインストリーム」の映画だけで、自分はそういうものには興味がないと。
 もちろん、断片から現実に迫るためには、ばらばらにされた部分をただ漫然と提示すればよいのではない。どこをどんな風に切り取り組み合わせれば、断片からなるフィクションが現実の何かに触れているかのように見えるか、見る側がそれを感じ取ることができるかを、作り手は熟考しなければならない。ハネケの映画はその点で脚本から編集、撮影、音入れに至るまで練りに寝られたもので、もちろん途方もない撮り直しを含め、聖地に作り込まれている。
 フーコーの作品、とくに『監獄の誕生』や『言葉と物』は、このように考え抜かれた芸術作品に似たところがある。著書の中で彼は数々の断片を読者に差し出してくる。細部の執拗な描写、豊富な引用。一見反復的な表現の中で、気付けば物語が進行しているという複雑な構成。断片を折り重ねることで現実に迫ろうとするその手法は、ひるがって多様な読みの可能性を読者へと開くものとなる。(重田園江『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』筑摩書房〔ちくま新書〕/2011/p.234-235)

《考古学者》の羽状脈は正に派生的である。主脈と側脈との間を埋める金、紫、橙などの色の集積は、絵筆により色を面として塗ることで得られるのではなく、糸を替えて運針を繰り返すことで得られる。「細部の執拗な描写」、「反復的な表現」と言えよう。
また、巻貝を土台に先端に列柱の西洋の古代建築が、また側面に青い鳥の羽が並ぶイメージを黒い絹布に絹糸で刺繍した作品《王国》(275mm×220mm)は、まさに「どこをどんな風に切り取り組み合わせれば、断片からなるフィクションが現実の何かに触れているかのように見えるか、見る側がそれを感じ取ることができるか」を熟考した作品と言えよう。
因みに、一見静謐なイメージは、例えば風に吹かれて立つ少女《光の人》(335mm×244mm)に典型的なように、実は揺れ動いている。言わば映像的であるのは、作家が彫刻を出自することによる。透視図法に象徴される絵画が視点を固定するものであるのに対し、彫刻は作品の周囲から眺めることを前提とし、イメージの変容を最初から孕んでいるからである。映像を手段とする彫刻家・黒田大スケが例証だ。ハネケを引き合いに出して然るべきなのである。

《光の人》(530mm×333mm)の黒い絹布には、赤味のある絹糸による点の集積により女性の立像が表わされる女性は俯き、右腕で胸を左腕で腹を隠すように立つ。サンドロ・ボッティチェッリ[Sandro Botticelli]の《ヴィーナスの誕生[La Nascita di Venere]》のヴィーナスの姿勢に近いかもしれない(女陰のメタファーである貝の代わりに闇が配されていると捉えることもできよう)。闇の中に光の粒子が集まり女性が顕現しようとしているようでも、女性が光を放ちながら闇の中に融け消えていくようでもある。光の粒の中には花弁の形を取るものが紛れている。
黒い絹布に紫・青の絹糸で横たわる人物を表わした《光の人》(333mm×530mm)は、アレクサンドル・カバネル[Alexandre Cabanel]の《ヴィーナスの誕生[La Naissance de Vénus]》の横たわるヴィーナスというより、涅槃図である。女性の身体を構成するのは藤の花ではないか。「春は藤波を見る。紫雲のごとくにして、西方に匂ふ」(『方丈記』)。藤の花は紫雲――阿弥陀如来の乗る雲――に見立てられる。因みに、白い絹布の全面に赤、黄、紫、青などの点を施し、人の姿を浮かび上がらせた《光の時》(220mm×275mm)もまた一種の来迎図と言えよう。人物が左から現われるのは、西方から現われる人物を阿弥陀如来に擬えることができる。
紫雲の如き涅槃図《光の人》(333mm×530mm)に近いイメージが《泉》(220mm×275mm)である。漆黒の絹布の闇に青、紫などの絹糸で花、泡、貝、プランクトンのようなイメージが点の中に紛れ込み楕円の泉を形作る。ヴィーナスを誕生させる海でも有り得る。それはまた銀河のようでもある。地に湧く泉は同時に宇宙に煌めく無数の星々へと反転する。死は生を呼び込む。赤色超巨星が超新星爆発で中性子星を生むように。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ[Johann Wolfgang von Goethe]の臨終の言葉(とされる)「光を、もっと光を![Licht, mehr Licht!]」が響く。

木の葉、羽根、人物、泉、階段、貝とモティーフは様々である。尤も、全ての作品は響き合い、通じ合う。それは単に絹布と絹糸という同じ素材により構成されているからだけではない。その天地、空と海、光と闇とは常に反転し、止まることを知らず、誕生=死という主題に全てが貫かれているからである。それは、「インドラの網」の叡知へと通じていくものではなかろうか。

 そもそも、帝釈天の宮殿にかかっている珠網は、その在り方によって「インドラの網」と名づけられている。しかも、この帝網はみな宝珠から成っているのである。宝珠は光に輝き、透き通っているので、互いにその像を映し合い、重なり合って、互いのなかに入り込んでいる。1つの宝珠のなかに、同時に他の無数の宝珠の像が映り込み、現われている。1つの宝珠の在り方にしたがって、他のすべての宝珠もまた、そのあるがままにしてある。そこから去るものも、あらためてそこに来るものもない。いま、ためしに西南の方角に向かって、ひとつぶの宝珠を手に取ってこのことを験してみるなら、たちまちのうちに、この1つの宝珠のなかに他のすべての宝珠の像が映り込み、現われ出るであろう。このひとつぶの宝珠でさえこのようにしてあるので、他の11の宝珠も同様である。11の宝珠のなかに、まったく同時に一切の宝珠の像が映り込み、現われるのも、この通りである。その他の11の宝珠の在り方もまた、この通りである。このよにして無数の宝珠が重なり合うことに、限りはない。結局のところ、こうして限りなく重なり合った無数の宝珠の像のすべてがみな1つの宝珠のなかにあって、それぞれ輝きわたりながら、そのすべてがみな等しくある。他の宝珠がその在り方を妨げることはない。もし1つの宝珠のなかにおいて坐するときには、その十方、まわりを取り囲むあらゆる方向において重なり合ったすべての宝珠のなかに坐するのである。なぜ、そのようなことが起こるのか。1つの宝珠のなかにすべての宝珠があるからである。すべての宝珠の中に1つの宝珠があるのでそのまますべての宝珠のなかに坐しているのである。(安藤礼二『空海』講談社p.164-165)

太陽から放たれた光は葉=植物を介して生命を循環する。宇宙マクロコスモス[Μακρόκοσμος]とミクロコスモス[μικρόκοσμος]とは照応する。冒頭の輝く葉《考古学者》は光の循環の象徴であった。
光はここにある。