展覧会『フィリップ・パレーノ展「オブジェが語りはじめると」』を鑑賞しての備忘録
ワタリウム美術館にて、2019年11月2日~2020年3月22日。
フィリップ・パレーノの日本初個展。
《花嫁の壁》(2018)は、フィラデルフィア美術館で開催された「花嫁のまわりで踊る」(2012)という展覧会で、マルセル・デュシャンの油彩画《花嫁》(1912)を飾る壁として、同じくデュシャンによるオブジェ《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(1915-23)をイメージして制作されたもの。後にスポットライトなどが取り付けられて現在の形になった。
《壁紙 マリリン》(2018)は、燐光性インクでプリントされたアヤメの花の壁紙。映像作品《マリリン》(2012)の舞台セットの背景としてつくられたものを独立した作品にしたもの。
《花嫁の壁》と《壁紙 マリリン》とは、いずれも別のモノや存在を引き立てる装置として生み出された作品であり、それぞれがフィーチャーすることになっている対象の不在が鑑賞者の意識に上らせられることになる。
《マーキー》(2016)は、白熱電球とネオン管とを組み合わせたオブジェ。かつて映画館や劇場で映画のタイトルや役者の名前を表示した「マーキー」と呼ばれる装置を模しているが、本作品で文字の表示は行われない。
《吹き出し(白)》(1997)は、漫画のキャラクターの科白が書き込まれる吹き出しの形をした風船が天井を埋めつくす。風船は無地で、文字の書き込みは無い。
《マーキー》と《吹き出し(白)》とは、いずれも表示されるべきメッセージを欠いている。メッセージの不在を鑑賞者は意識せざるを得ない。
《リアリティー・パークの雪だるま》は1995年に青山で開催された「水の波紋」展で屋外展示されたものを、再制作したもの。氷でできた巨大な雪だるまの姿は融けて消えていく。消失の過程を鑑賞者は目にすることになる。
フィリップ・パレーノの作品は、そこにあるモノが存在しないこと(あるいは存在しなくなりつつあること)を示すことにより、かえってそのモノの存在を強く喚起させる。かつては記憶するために「歌」が用いられるなど、様々な技術が磨かれた。だが、記録するための技術が生み出されていくにつれて、記憶のための技術は廃れていった。あらゆるものをデータとして記録することが可能になりつつある現在、記録はこれまでになく記憶を衰微させている。だが、記録は万能では無い。パレーノの作品に、記憶の復権の声を聞く。
《しゃべる石》(2018)は人工石の内部に設置されたスピーカーから「オートマトン」(機械仕掛けで動く人形)についてのテキストが語られるもの。パレーノは、ミシェル・セールやブルーノ・ラトゥールの「準-客体」という概念を重視しているという。サッカーにおけるボールのように、それ自体は主体ではないが、状況を導くという点では純粋な客体とも言えないものを「準-客体」と捉えるのだそうだ。例えば、人形の立場に立って考えるというとき、その人形は考える私=主体のアヴァターとして機能する。だが《吹き出し(白)》のように言語を介在させることがなくなったとき、換言すれば考えることを止めたとき、そこに主体が存在しなくなり、客体も失われてしまう。人工石(=オートマトン=人形)が「しゃべる=言葉を発する」ことが、思考する存在=主体性を鑑賞者に回復させる装置として機能している。そこに「準-客体」が認められるということだろうか。