展覧会『財田翔悟展「箱庭の世界」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー広田美術にて、2020年3月27日~4月11日。
《箱庭の世界》を中心とした財田翔悟の絵画展。
《箱庭の世界》は、幅6m・高さ2.5mの大画面。画面は6枚に分割されているため、一部角度をつけて画面を折り曲がげる形で、ギャラリーの天井ギリギリに広がっている。画面の大きさよりも鑑賞者に迫るのが、山水画を思わせるモノトーンの深山幽谷に表された顔である。中央の山腹には女性の顔が、そして左右には脇侍か狛犬かのように黒白の猫が描き込まれている。衣類や毛布の重なりや膨らみを山肌に見立て、身近な存在から幸福とそれと表裏の関係にある恐れを表現しているという。
山に囲まれた生活を送り日常的に山を目にしていれば、常にそこにある山という存在に見られているという感覚が生まれる。まっさらな画面という一定の領域(=箱)の中に、その感覚を落とし込む際に、住まい(=箱)の中にあるありふれていてかけがえのない存在を用いて表現することは、至極当然のことだったのだろう。
山が阿弥陀仏であり、その阿弥陀仏がわたしをまなざしていると意識するとき、凡夫としてのわたしは、阿弥陀仏の恩恵に包まれていることを自覚し、おのずとおのれの行動を律するだろう。ましてや、無心に勤行し、ふと目を上げると、それまで雲霞に隠れていた山が顔を出すというような場面にあって、阿弥陀仏が慈悲のまなざしを向けたと感じ入っても、無理はなかろう。
たとえば、哲学者の鷲田清一氏は次のように言う。「自分をまなざす他の存在を感受するという受動的な経験は、浜田・山口によれば、われわれの存在のエレメントとでもいうべき根源的な役割をはたしている。われわれにはだれか(たとえば母親)によって見られているということを意識することによって、そしてどきどきそのひとのほうを振り返ることによってはじめて自分の行動をなしうるということがある」。
また、引用文中の浜田こと発達心理学者の浜田寿美男氏は「照らし返される」自己という言い方で人間存在の本質を語っている。「まさに相手が物体ではなく、主体として自己の方向に視線を投げかけうる存在であるがゆえに、その相手の視線によって照らし返され」、「相手の能動的なまなざしをうけとめるという受動そのもののなかに、自己の主体(自己の見えざる視点)が潜んでいる」。
相手は客観的に山岳という物体であっても、それを弥陀とみなすことによって、山岳は信仰するわたしをまなざす存在となる。
浜田氏によれば、「人は身体を持っているがゆえに、他者と切り離された個別的存在であると同時に、その身体をとおして他者と通じる共同的存在」であり、そのことは、「一つには他者との〈能動-受動〉のやりとりからなる相補性として現れる」という。氏はこれは「相互主体性」と呼び、「人と人とを一つの物語世界のなかに折り合わせていく、人間にとってきわめて基本的な現象」だとする。これらの一連の論述は、あくまで乳児が自己を形成していく過程を説明するためのものである。しかし、この説明は、現世の混沌たる不安の中に、安定した自己を定位させようともがく凡夫にも充分に当てはまるように思われる。
弥陀にまなざされ、そのまなざしを受け止めることを通じて、信仰という物語世界に自己を織り込んでいくことが、すなわし「安心」につながっていく。その契機が、山岳を弥陀といなし、山岳と向き合うことに含まれているのではないか。(齋藤潮『名山へのまなざし』講談社現代新書/2006年/p.141-142)