可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 夏目麻麦個展『イキレ』

展覧会 夏目麻麦個展『イキレ』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2021年10月30日~11月13日。

絵画12点で構成される、夏目麻麦の個展。

展示作品中最大の画面の《There》(1455mm×970mm)には、紫色の空に覆われた闇に沈む住宅地の中、ぬっと聳える灯りの消えた集合住宅を背景に、車道沿いの刈り込まれた常緑低木と等間隔に立つ裸木(ケヤキ?)とが、くすんだ色調と滲む筆致とで描かれている。左側手前に街灯があるらしく、左側に立つ冬樹は白く照らし出され、葉を茂らす植栽はツツジの花のように照り映えている。植栽を草が縁取り、画面の一番手前を走る車道は芝のような黄緑を呈している。とりわけ目を引くのは、ほぼ中央に立つ寒樹だ。街灯の光源から離れているために暗く照らし出されていることを表すのだろう、闇の中でガスコンロの炎のように青白く光っている。家の灯りなのか、その周囲に配された朱色も青白さを引き立てている。主要なモティーフである街路樹は、人の手によって植えられた植物である。街路樹は「自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとで」成長する。

 「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」。
 マルクスの〔引用者補記:『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』の冒頭の〕この有名な1文は実に見事な文学的表現である。もしこの1文が、「人間は自分自身の歴史を思うが儘につくっているわけではない」という表現であったならば、その意味するところは台無しである。「人間は自分自身の歴史をつくる(Die Menschen  machen ihere eigene Geschichite)」に、「だが、思う儘にではない(aber sie machen sie nicht aus freien Stücken)」と言葉が継がれているからこそ、人間が歴史を作っているとも、それが強制されているとも言い切れない様が見事に表現されているのだ。
 歴史は人間が思ったようにつくり上げたものではない。だが、それは人間がつくった歴史とみなされる。ここにこそ、歴史と人間の残酷な関係がある。人間が参照の枠組みを選んだことなど1度もない。人はすぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた参照のの枠組みのもとで判断を下すほかないのである。(國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』医学書院/2017年/p.285)

街路樹も人も「自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとで」生きている。それは、自らの意志のみに基づいて生き「る」ことと、他者に生き「ろ」と命じられていることの中間にある、言わば生き「れ」の状態にあると言えよう。そこに存在する生命のほてり、すなわち「熅れ」が、暗視カメラが捉える映像のように、夜の闇の中で発光する様を作者は捉えているのだ。