展覧会『浅葉雅子展「At the Museum」』
コバヤシ画廊にて、2024年10月28日~11月2日。
春画をデザインした衣装を着た女性たちが絵画を眺める姿を描いた作品で構成される、浅葉雅子の個展。
《見つめる》(1570mm×1810mm)は、銀箔の上に赤い絵具を重ね、淡い赤の光に包まれた画面に、壁に掛かる日本の近代絵画を眺める女性の後ろ姿を描いた作品。女性の頭部左右に岸田劉生《麗子微笑》(1921)と藤島武二《蝶》(1904)、女性の胸部の左右に黒田清輝《湖畔》(1897)と青木繁《大穴牟知命》(1905)が並ぶ。これら4点に表された女性の顔が、絵画を眺める女性に向けられていることで、この作品を眺める鑑賞者の視線を作中の女性に誘導する効果を生んでいる。4点の左側には竹内栖鳳《絵になる最初》(1913)、右側には岡田三郎助《あやめの衣》(1927)が並ぶが、《絵になる最初》ではモデルが左手で顔を隠し、《あやめの衣》は後ろ姿のために顔そのものが見えない。《絵になる最初》、《湖畔》、《大穴牟知命》では顔(目)の表現が敢て省かれている。とりわけ《大穴牟知命》は鑑賞者を見返すような女性が印象的であるのにも拘わらずである。それは、女性たちが男性作家の眼差しの対象であり、決して眼差しの主体では無かったという、近代絵画、否、近代そのものの構造を映し出すためであろう。それら絵画を「見つめる」女性を配することで、女性に対して一方的に注がれる眼差しを相対化しようとするのである。女性の黒いTシャツに描かれるのは、歌麿の《歌まくら》にある抱き合う男女の姿である。覆い被さる男性をひしと抱き締める女性はその体位通りの男性上位とは言えない。貫く男根は女性自身によって包まれているからである。
《これは何?》(1303mm×1620mm)の銀箔の上に赤い絵具を重ねた画面には、黒猫を抱く女性像を眺めるお下げの少女2人が描かれる。幼い彼女たちが熱心に眺めるのは、竹久夢二の《黒船屋》(1919)である。画面に見えるのは上半分だけであるが、《見つめる》とは異なり、モデルの顔も表現されている。少女たちはぐっと体を傾けているのは、《黒船屋》が上下反転して飾られているからである。眼差しの一方的な対象である女性という見方を文字通り顛倒させて欲しいという願いが籠められている。少女たちのスタジャン(?)には歌麿の《歌まくら》にある男の腕を噛む女の姿であることもまた反攻のメタファーである。
《無題》(1120mm×1455mm)の銀箔の上に赤い絵具を重ねた画面に表されるのは、展示された島成園の《無題》(1918)と、それをベンチに腰掛けて眺める青い髪の女性の後ろ姿である。島成園 の《無題》は、描きかけの草花の屏風の前の畳に腰を下ろす自画像であるが、敢て右目の周囲に痣を描き加えてある。成園が無体なまねに及んだのは、大正時代の女性の社会進出を背景にしていよう。大正時代には女性向けの雑誌が次々に創刊されるが、例えば、1913年創刊の『婦人公論』は「女性の解放と自我の確立を求め」、「自由主義と女権の拡張を目ざ」したのである。画中の島成園の眼差しを、現代の女性たる画中の鑑賞者はしっかりと受け止めている。
《You don't own me》(803mm×1167mm)には、壁に掛かる額装されたアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)《Ice Cream Dessert》(1959)を眺める車椅子に坐る年配の女性が描かれる。女性の黒いTシャツには浮世絵のイメージが線描で表され、赤地に白文字で"You don't own me"のロゴが踊る。描かれたアイスクリームを食することはできない。文字通り、画餅である。だが画餅にはハングリー精神を搔き立てる力はあろう。《You don't own me》を通じ、先達である島成園の意志を継ぐことを作家は宣言するのである。