展覧会『メキシコへのまなざし』を鑑賞しての備忘録
埼玉県立近代美術館にて、2025年2月1日~5月11日。
初代館長の本間正義(1916-2001)がメキシコ美術に造詣が深かったことや、埼玉県がメキシコ州と姉妹提携していたことなどから、埼玉県立近代美術館では「メキシコの美術―革命と情熱―」(1985)、「現代メキシコ版画と日本/日系二世の画家ルイス・ニシザワ展」(1998)、「ディエゴ・リベラの時代」(2017)とメキシコ関連の展覧会が開催されてきた。『メキシコへのまなざし』は、モダンアートと在来文化との融合で国際的評価を高めていたメキシコ美術をマヤ・アステカ文明や民芸品などと併せて紹介した「メキシコ美術展」の日本巡回展(1955)を糸口に、戦後日本の美術に対するメキシコ文化の影響の一端を詳らかにする。第1章「メキシコ美術がやってきた!」では、「メキシコ美術展」出品作家であるホセ・クレメンテ・オロスコ(José Clemente Orozco/1883-1949)、ディエゴ・リベラ(Diego Rivera/1886-1957)、ダビッド・アルファロ=シケイロス(David Alfaro Siqueiros/1896-1974)、ルフィーノ・タマヨ(Rufino Tamayo/1899-1991)らの作品を中心に展観する。第2章「美術家たちのメキシコ ―5人の足跡から」では、滞欧経験からメキシコに注目した福沢一郎(1898-1992)や岡本太郎(1911-1996)、「メキシコ美術展」に感化された利根山光人(1921-1994)、芥川(間所)紗織(1924-1966)、河原温(1932-2014)らのメキシコとの関わりを明らかにする。第3章「埼玉とメキシコ美術」では、本間正義や埼玉県立近代美術館とメキシコとの関わりのある資料や関連作品を取り上げる。
第1章「メキシコ美術がやってきた!」
メキシコ革命(1910-17)後、ホセ・バスコンセロス(José Vasconcelos)が民族主義的芸術の興隆のため公共建築の壁面をアーティストに提供する。識字率の低い人々に革命思想を伝える狙いがあった。ホセ・クレメンテ・オロスコ、ディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ=シケイロスらが才能を発揮し、第25回ヴェネツィア・ビエンナーレ(1950)では、モダンアートの動向にアンテナを咀嚼しつつ民族主義的な傾向を持つ彼らの作品が注目を集めた。その潮流の最中、ロンドンやパリで開催された「メキシコ美術展」が日本に巡廻した。マヤやアステカの古代文明の文物あるいは民芸品と現代美術とに「メキシコ的なるもの」が通底するのを認めた、独立後アイデンティティを模索していた日本の美術家たちは多大な影響を受けた。
まず、「メキシコ美術展」の目録(1955)[1-M01]が象徴的に置かれる。実行委員に名を連ねたのは福沢一郎、土方定一、瀧口修造、岡本太郎、丹下健三。さらに会場ディスプレイは丹下健三、カタログレイアウトは亀倉雄策、カタログ写真は石元泰博と「メキシコ美術展」に携わったのは綺羅、星の如き面々であった。続いて、革命のきっかけとなった独裁者ポルフィリオ・ディアス(Porfirio Díaz)の肖像[1-01]や独立100周年(1910)に現われた彗星を見上げる人々[1-04]などホセ・グアダルーペ・ポサダ(José Guadalupe Posada/1852-1913)が新聞に載せたイラストレーション、ファランクスのようなデモ行進(1935)[1-19]やスペインによる侵略の歴史に着想した《白い神々》(1947頃)[1-20]などオロスコの絵画、スペインに抵抗した皇帝《カウテモックの肖像》(1947)[1-22]などシケイロスの絵画、騎兵によって襲われた人々を描くタマヨの壁画の習作(1932)[1-23]など、メキシコ革命に纏わる絵画が続く。リベラの作品では、建設中の町でタコスを口にする幼い男の子を描いた《タコスを持つ子供》(1932)[1-09]や、若い教師の脇に潜り込み必死に学ぼうとする少女の眼差が眼を引く《野外学校》(1932)[1-12]などが魅力的である。革命と直接関わらない作品としては、鶏の爪のような手をした女性たちが亡霊のように闇に浮かぶタマヨの《夜の踊り子たち》(1941)[1-24]や、眠る男と2人の女性をサボテンの中にパズルのように組み込んだ北川民次の《眠るインディアン》(1961)[1-28]などが印象的だ。
第2章「美術家たちのメキシコ ―5人の足跡から」
岡本太郎は1930年代渡仏し、パリ大学でマルセル・モース(Marcel Mauss/1872-1950)に民俗学を学び、ブラッサイ(Brassai/1899-1984)に写真を教わる中、クルト・セリグマン(Kurt Seligmann/1900-62)にメキシコの遺跡や神像の写真を見せられ、メキシコに関心を抱く。1955年のメキシコ美術展では実行委員に名を連ね、1957年には旧東京都庁舎に《建設》などメキシコ美術に影響を受けた壁画を作った。1963年には利根山光人の誘いで渡墨し、後の1970年には《太陽の塔》の内部に日本の人々に是非見せたいと地母神コアトリクエ(Coatlicue)のレプリカを設置した。現在渋谷駅に恒久設置されている壁画《明日の神話》(1968-1969)はオテル・デ・メヒコのロビーを飾る予定だった作品である。
福沢一郎は渡仏して絵画を学び、シュルレアリスムを日本に紹介するなど前衛美術の騎手として活躍した。1953年から翌年にかけて中南米を巡り、美術手帖に特集記事[2-M23]を寄せるともに、旅行記『アマゾンからメキシコへ』[2-M22]を著した。メキシコ美術展の日本巡廻を仲介し、現地での作品選定にも当たった。《埋葬》
(1957)[2-27]は「死者の日」の死生観を絵画化したもの。
芥川(間所)紗織は東京音楽学校で声楽を学び、芥川也寸志(1925-1989)との結婚を機に絵画(当初油彩、後に臈纈染め)に転じる。初個展を開催した1954年に夫とともにヨーロッパ、ソ連、中国を歴訪して日本のアイデンティティを主題とし神話や民話に取材して絵画制作に当たった(《天を突き上げるククノチ》(1955)[2-32]、《大木にハサマレタ若い神》(1956)[2-34]など)。メキシコ美術展で目にしたルフィーノ・タマヨの「発酵したような異様な黄・紫・桃色」といった色遣いに影響を受けた(参考として、タマヨの作品が並べられる[2-48, 49])。
利根山光人は労働者と生活をともにして「佐久間ダム」シリーズを制作するなど終始一貫して民衆の立場で美術に携わった。欧米の美術の無批判な受容に疑問を抱き、北川民次の作品などを通じてメキシコへの憧れを強め、1959年に渡墨。日系二世のルイス=ニシザワ(1918-2014)やシケイロスらと交流し、メキシコ国立近代美術館での個展を成功させた。メキシコの古代文明の遺跡を巡り拓本([3-62,63,64])を取り、また『メキシコの民芸』[2-M41]を著した。1972年に日本で開催されたシケイロス展にも寄与している。
浴室シリーズや印刷絵画で注目されていた河原温はメキシコ美術の魅力を認めつつ
、目新しいエキゾチシズム として魅了されることを警戒した。1959年に父親の仕事の都合で渡墨し、サン・カルロス美術学校に学んだ後、1965年からはニューヨークを拠点としてコンセプチュアル・アートを制作した。「Today」シリーズの《20ABR.68》(1968)[2-85]は死を表わす黒い地に生を表わす日付だけが浮かび上がる。生と死とは常に隣り合わせである。
第3章「埼玉とメキシコ美術」
初代館長の本間正義が東京国立近代美術館で携わった「現代メキシコ美術展」(1974)や「ルフィーノ・タマヨ展」(1976)、また、埼玉県立近代美術館で過去に開催された
「メキシコの美術―革命と情熱―」(1985)、「現代メキシコ版画と日本/日系二世の画家ルイス・ニシザワ展」(1998)、「ディエゴ・リベラの時代」(2017)の資料や、タマヨなど関連作家の作品が展示される。「ルフィーノ・タマヨ展」のポスター[3-M4, M5]を含め、単純化されつつもこの世のものではない雰囲気を漂わせる人物などを描くタマヨの作品が印象深い。フランシスコ・トレド(Francisco Toledo)の擬人化された(?)バッタが登場する《バッタ》(1974)[3-15]などを見るもつけ、ギレルモ・デル・トロ(Guillermo del Toro)のような映画制作者が生まれる理由が分かる気がする。