映画『アイム・スティル・ヒア』を鑑賞しての備忘録
2024年、ブラジル・フランス合作。
137分。
監督は、ウォルター・サレス[Walter Salles]。
原作は、マルセロ・ルーベンス・パイバ[Marcelo Rubens Paiva]の回顧録"Ainda Estou Aqui"。
脚本は、ムリロ・ハウザー[Murilo Hauser]とヘイター・ロレガ[Heitor Lorega]。
撮影は、アドリアン・テイジード[Adrian Teijido]。
美術は、カルロス・コンティ[Carlos Conti]。
衣装は、クラウヂア・コブケ[Cláudia Kopke]。
編集は、アフォンソ・ゴンサウベス[Affonso Gonçalves]。
音楽は、ウォーレン・エリス[Warren Ellis]。
原題は、"Ainda Estou Aqui"。
1970年12月。軍事独裁政権下のブラジル。リオデジャネイロのレブロン海岸。ユーニス・パイヴァ(Fernanda Torres)が一人海に浮かんでいると頭上をヘリコプターがけたたましい音を立てて飛んで行った。砂浜でエリアナ(Luiza Kosovski)たちがバレーボールをしていると、コートに薄汚い小さな犬が紛れ込む。ここ1週間ほど見かけるようになった雑種。エリアナは弟のマルセロ(Guilherme Silveira)を呼び、ゲームの邪魔だからと犬を預ける。マルセロは受け取った犬に大喜び。すぐさま友人と日焼け止めを塗っていた姉のナル(Bárbara Luz)のところに向かう。見てよ、すごくかわいいだろ? ママは蚤にくわれた犬なんて飼わせてくれないわ。ママはどこ? さあ。マルセロは海に向かい、波に揺蕩う姿を認めるが、犬を連れて引き返し、家へ向かって走る。車に気を付けるのよ! エリアナが弟に向かって叫ぶ。マルセロは友人たちとともに砂浜から自動車道を越えて家へと急ぐ。
家政婦のゼゼ(Pri Helena)がマルセロたちに掃除したばかりよと足の砂を払うよう注意する。かわいい、だっこさせて! バビウ(Cora Mora)はマルセロから犬を受け取る。一体何なの? ゼゼが咎める。犬だよ。不衛生じゃない! お母さんは承知してるの? パパはいるの? ベイビさんと書斎にいるわ。邪魔しないのよ。緊急事態なんだ。
ベイビ・ボカイゥヴァ(Dan Stulbach)がこんな規模のプロジェクトを引き受けるなんて狂気の沙汰だと言う。簡単だったら引き受けないさ、とルーベンス・パイヴァ(Selton Mello)。私なら引き受けるけどね。確かに! マルセロがノックする。入りなさい。駄目だ駄目だ、犬は家には入れない。飼ってもいい? お母さんは何て? パパと話せって。ベイビ、引き取ってくれないか? 私が? 無理だよ。穴を掘るだろ。ダラル(Camila Márdila)が追い出してしまうさ。ルーベンスが犬を抱えてじっくりと眺める。
ピンパオ(Caio Horowicz)の運転する車の助手席でヴェロカ(Vera Sílvia Facciolla)が8ミリカメラにフィルムをセットし、ラジオから流れるトム・ゼの音楽に合わせて歌うエレナ(Luana Nastas)や同乗する仲間たちの姿を、続いて車窓からの眺めをカメラに収める。トンネルに入ると渋滞する。軍による緊急検問だった。何? マリファナを消すんだ。ピンパオが言う。自動車は左側の一車線で徐行し封鎖した右側の車線に停車するよう誘導され、自動車から降ろされた人たちは壁際に向かって立つよう命令された。ピンパオも指示に従う。エンジンを切れ! カメラを降ろせ! 車から降りろ! 3人はトンネルの壁に、ピンパオは自動車のボンネットに両手を付けさせられる。証明書! 軍警察がピンパオの背中を押し突き倒す。ピンパオやヴェロカが乱暴だと抗議する。車の中だ。ピンパオがサンバイザーから身分証を取り出す。軍警察は懐中電灯の光を顔に当て、テロリストの写真と1人1人照合する。
ヴェロカの映画は何時に終わるの? ユーニスがリヴィングでバビウとクリスマスツリーの飾り付けをしているルーベンスに尋ねる。心配ない、もう帰って来るさ。ピンパオが1人1人送ってるんだろ。テレビでリオデジャネイロで今朝スイスの外交官が拐がされたと報じる。音量を上げてくれ。ルーベンスがニュースを見入る。…ラランジェイラス地区で8人の男と1人の女がウィリスエアロで大使の車の進路を塞ぎ、警備員の頭部を撃って外交官を拉致しました…。解放されたんじゃなかった? エリアナが尋ねる。あれはドイツ大使だ。今回はスイス大使。…2台のフォルクスヴァーゲンがフラメンゴ方面へ逃走、現場には国民解放同盟のビラが残されていました…。
台所ではナルがゼゼを手伝っている。でも、犬は可愛いわよ。世話しないからでしょ。そこへ沈痛な面持ちでヴェロカが帰って来た。どうしたの? まだ震えが止まらない。酷い目に遭ったわ。どこへ行ってたの? ユーニスが来て娘に尋ねる。エレナを家に送る途中、軍に道を塞がれてたの。捜索は全員に暴力的だったわ。また大使が誘拐されたからよ。テレビが報じたわ。ピンパオが父親のOABカードを持っていたから助かったわ。何よ、それ? ブラジル弁護士協会[Ordem dos Advogados do Brasil]、家族に弁護士がいるっていいことだわ。何か食べます? ゼゼ、ありがとう、お腹は空いてないわ。ちゃんとしたもの食べないと。お父さんと話しなさい、心配してるわ。
マルセロが犬を抱えてヴェロカに見せる。パパがピンパオって名前にしたんだ。彼はもう行っちゃった? ダッジに乗せてくれるって言ってたんだ。プレボーイの車なんかに乗るな! ルーベンスがマルセロに注意する。おかしいわね、プレイボーイってウィスキーを飲んで一日中葉巻を吸ってる人だと思ってたけど。ヴェロカが父親を当て擦る。お前の映画料金は俺が祓うんだ。何を見てきた? 『欲望[Blowup]』。音が酷かった。お母さんは心配してるよ。家に閉じ込めておくつもり? 軍の嫌がらせは私のせいだって言うわけ? 今度は何人の釈放を要求するつもり? さあ、みんな、もう寝なさい。ニュースを見たいわ。エリアナが母に頼む。駄目よ、寝なさい。マルセロ、犬はガレージよ。ダルヴァ(Maeve Jinkings)に電話してエレナが無事か確かめるわ。ユーニスがニュースを見ながらコーヒーを飲むルーベンスに告げて居間を離れる。
1970年12月。1964年にクーデタによって軍事独裁政権が樹立された際に国会議員の資格を剥奪されたルーベンス・パイヴァ(Selton Mello)は、一時亡命の後、リオデジャネイロのレブロン海岸近くに居を構え、土木技師として妻ユーニス・パイヴァ(Fernanda Torres)ら家族を養っていた。長女ヴェロカ(Vera Sílvia Facciolla)はピンパオ(Caio Horowicz)らとヒッピーとして過ごし、最近は政治活動にも首を突っ込んでいるようだ。次女エリアナ(Luiza Kosovski)はバレーボールに熱心に取り組んでいる。三女ナル(Bárbara Luz)はフレンチポップに感化され、ダラル(Camila Márdila)に習うバレエに乗り気でない。地元の少年たちと連む長男マルセロ(Guilherme Silveira)は小汚い犬を拾ってきて、四女バビウ(Cora Mora)とともに夢中になっている。もっとも犬の世話する羽目になるのは家政婦のゼゼ(Pri Helena)だ。国民解放同盟が度々外国大使を拉致して収監された活動家の解放を求める中、軍事政権は反政府活動の取締に躍起になった。フェルナンド・ガスパリアン(Charles Fricks)が妻ダルヴァ(Maeve Jinkings)や娘エレナ(Luana Nastas)ら家族とともにロンドンへの亡命するに際して、ユーニスはほとぼりが冷めるまでとヴェロカを同行させることにする。ヴェロカの出立を祝うパーティーでは、ちょうどバビウの歯が抜け、ルーベンスは砂浜に埋めるフリをして密かに歯を取っておく。パーティーに参加した家族や親しい友人たちが揃って海岸での記念写真に収まり、パーティーはお開きになる。ロンドンでの生活を始めたヴェロカが手紙とともに8ミリフィルムを送ってきた。ビートルズ縁の場所にいるヴェロカを妹たちは羨む。ある休日の午後、お届け物があると電話があった後、拳銃を手にした男(Luiz Bertazzo)たちが家に乗り込んで来てルーベンスに同行を求めた。ルーベンスは平然と対応し、ナルにネクタイを締めてもらうと、ユーニスとキスを交わして自ら車を運転して出て行った。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
突然暗転する映画『ライフ・イズ・ビューティフル[La vita è bella]』(1997)とは異なり、冒頭、海水浴をするユーニスの頭上をヘリコプターが飛び去る。あるいはヴェロカの出立を祝うパーティーで家族と親しい仲間たちとで海岸で記念撮影をした際にも、通りを兵士たちを満載したトラックが通り過ぎる。不穏な気配は漂っている。それでも海岸の人たちは海水浴を満喫している。
ピンパオの運転する車でヴェロカのヒッピー仲間たちはマリファナで気分は上々、通りの人々の様子にも剣呑な成り行きは感じられない。ところがトンネルに入ると、軍の検問にひっかかる。突如独裁政権の矛先がヴェロカたちに向けられる。
自宅を急襲されても、ルーベンスは動揺するそぶりを微塵も見せない。家族に累が及ばないよう一切を秘匿して地下活動を行っており、いつ身柄を拘束されてもおかしくないと腹を括っていたのだ。ユーニスもルーベンスを見習い、軍関係者に家を占拠されても平然と対応し、必要以上に子供たちを不安にさせないよう努める。
(以下では、全篇の内容について言及する。)
困難なプロジェクトこそ引き受けるルーベンスによる新居の縄張りは、新生ブラジルへの希望と重ね合わされたが、ルーベンス自らはその夢を叶えることはできなかった。ルーベンスは軍事独裁政権によって拉致され拷問の末に殺害されたからだ。ユーニスは縄張りに用いた杭を失意の中で引き抜く。
ルーベンスの拉致から25年後、ユーニスは政府にルーベンスの死亡証明書を発行させることに成功する。軍事独裁政権によるルーベンスの存在否定を、ユーニスが否定することで、言わば二重否定によって、ルーベンスの存在を強く訴えるのである。
ユーニスは拉致されたルーベンスの帰還を祈り、殺害されたと知った後は、ルーベンスに成り代わり家族を支え、47歳で法曹資格を得て、軍事独裁政権の非法を曝き、先住民族の権利を保護することに傾注する。
「それでも(私は)ここにいる」とは、ユーニスのルーベンスに対する、そして政府に対する主張であり、同時に、ユーニスによるルーベンスの声の代弁でもある。
バビウの歯が抜け、砂浜に埋められた歯が、ユーニスによって発見され、バビウに渡される。ルーベンスの失踪と、その「復活」を暗示する。
ユーニスを演じたFernanda Torresが素晴らしい。認知症を患った晩年のユーニスを、表情や科白なくして、眼だけで演じたFernanda Montenegro(Fernanda Torresの実の母)も印象に残る。